傷、苦しみ、痛み、そして回復を描く、マン・ブッカー賞受賞作家の短編集

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

回復する人間

『回復する人間』

著者
ハン・ガン [著]/斎藤 真理子 [訳]
出版社
白水社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784560090596
発売日
2019/05/28
価格
2,640円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

傷、苦しみ、痛み、そして回復を描く、マン・ブッカー賞受賞作家の短編集

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

 本作品集に対し、韓国のある男性評論家は「この本の関心事は、ほかの読み方をすることが困難なほどはっきりしている。それは〈傷と回復〉だ」と評したという。

 私が特に惹かれたのは、夢にまつわる「エウロパ」「フンザ」「火とかげ」の三編だ。

「エウロパ」に登場する男女「僕」と「イナ」の関係は、明示的なものではない。恋人でも友人でもない。「僕」は化粧をしてイナの服を着てハイヒールを履く。イナは跳ねる魚の骨を繰り返し夢に見る。ふたりは「真昼のように明るいけれども、奇異なくらいに空虚な陰影をたたえたネオンサイン」が灯る夜の街を歩く。イナが経験する「死」とは何か。彼女が目覚め回復していくという筋だと、前述の評論家は捉えたようだが、クィアである「僕」(切実に女になりたいが、男の体で女を抱きたくもなる)の視線の不安定な揺らぎが、リニアな“成長物語”の展開を阻む。

「フンザ」は、フンザという土地を執拗に夢見る女性の話だ。夫は定職が見つからず、彼女は住宅ローンを抱えて激務に耐えつつ、子どもを育てている。あるとき、パキスタンのこの“桃源郷”のことを耳に入れて以来思い続け、やがてフンザは架空の何かになり、しまいに彼女はフンザと同化せんばかりになる。狂気の漂う息づまる名編。

「火とかげ」は、女性画家の一人称語りだ。「私」は交通事故で左手が不随になり、右手も利かなくなる。家事を負担するようになった夫は、画業を諦めない妻に苛立ち、夫婦関係はしだいに翳りゆく。「私」は二つの夢を何度も見るが、あるとき一枚の写真が意外な過去を呼び戻し……。「私」は忘れていた時間を追体験した後、残酷な知らせを機に再生の微かな兆しを迎える。傷、苦しみ、痛みがあってこそ回復がある。

 決定的な破滅に至る編が一つだけあり、カレールの『口ひげを剃る男』を想起。リアリズムに幻想性と抒情性を兼ね備えた傑作短編集だ。

新潮社 週刊新潮
2019年6月20日早苗月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク