“逃げてばかりいる”男の話「あらゆる共感を拒絶する」物語
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
これまで赤松利市(りいち)の作品を読んで来た方なら、題名を見て、ボダ山で育った女の子の話かと思うかもしれない。
が、それは違う。主人公・大西浩平の娘・恵子が、ボーダー、すなわち、境界性人格障害であることからつけられたニックネーム。ニックネームというからには、悪口ではなく、皆から愛情をこめてそう呼ばれたことを意味している。
バブルの崩壊と娘の病気が判明した頃から、浩平のビジネスは破綻を来し、東北の被災地で土木作業員として働くことに。そして、恵子は、自分からボランティアとして働くことによって、まるで水を得た魚の如く、人としていきいきし、本書半ばのボランティア団体主催の餅つき大会に登場すると、一斉に“ボダ子”コールが起きるほどの人気ぶり。
これで一安心かと浩平が思ったのもつかの間、この後、人の親なら背中から冷水を浴びせかけられるような事実が待っているのだが……。
本書の帯の惹句には、「あらゆる共感を拒絶する」云々の文字が躍っているが、本当にそうであろうか。確かに浩平は「根っからのネグレクト気質。娘とまともに向き合おうとはしない。叱らないことを美徳と考えるが、裏を返せば、叱ることが怖いのだ」というすべてから逃げてばかりいる男。そして絶対正義の金だけを欲しようとし、あろうことか、ラストで最愛の娘を見捨ててしまう。
哀しい話である。
ここで、人間を性善説と、性悪説に分ける考え方があるとするならば、浩平はそのどちらでもない性弱説の人である。
さらに、山本周五郎をモラルを描いた作家だとするならば、赤松利市も逆説的にモラルを提示し続けている作家である。そして、こんな主人公には共感できないという人がいるならば、それは己の中の怯懦や卑劣さから顔をそむけているからではないか。本書は一つの鏡なのである。