『ひみつの王国』
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『クマのプーさん』 翻訳の“いきさつ”
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
【前回の文庫双六】『クマのプーさん』の作者が書いた“牧歌的”ミステリ――川本三郎
https://www.bookbang.jp/review/article/569812
A・A・ミルンがミステリー小説を書いていたとは知らなかった。ミルンといえば私の世代はやはり『クマのプーさん』である。
その訳者が、いまから11年前に101歳で亡くなった石井桃子。『ピーターラビットのおはなし』、ディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズを訳したのもこの人だ。石井本人が書いたファンタジー『ノンちゃん雲に乗る』も戦後のロングセラーとなった。
石井の評伝『ひみつの王国』には、彼女とプーさんとの出会いが描かれている。日本女子大学校を卒業後、文藝春秋社で編集者をしていた石井は、犬養毅の書庫整理を手伝った縁で犬養家に出入りするようになる。
1933(昭和8)年のクリスマスイブ。犬養健(たける)(毅の次男)の家に招かれた26歳の石井が、健の子供たち(道子と康彦)から差し出されたのが“The House at Pooh Corner”だった。のちに『プー横丁にたった家』として翻訳出版されることになるこの本は、赤い布貼りの洋書で、西園寺公望の孫である西園寺公一(きんかず)が、クリスマスプレゼントとして康彦に贈ったものだった。
クリスマスツリーの下で本を開き、訳しながら道子と康彦に読み聞かせた石井は、たちまちその世界に魅了され、本格的にこの本を訳し始める。それはプーさんに夢中になった姉弟、そして結核で病床にあった小里文子という女性のためだった。
文藝春秋社での先輩で、この5年後に33歳で死去することになる小里は、その後の石井の人生に多大な影響を与えた。石井は87歳のとき、『幻の朱い実』という大人向けの小説を書いて高い評価を受けるが、そこには小里とのかかわりが濃密に反映されていることが、本書を読むとよくわかる。
小里との友情を描いた部分は、目配りの行き届いた端正なこの評伝の中で、一種官能的ともいえる輝きを放つ。児童文学の大御所というイメージだった石井桃子の、多面的な魅力が伝わる一冊だ。