「掃除」を通じて、競争心・虚栄心を捨て現実に向き合うトレーニング

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「掃除」を通じて、競争心・虚栄心を捨て現実に向き合うトレーニング

[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)

掃除道入門 SOJI-DO こころを磨く、世界を磨く掃除の教え』(松本紹圭著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)の著者は、東京・神谷町にある光明寺の僧侶。

2017年以来、2週間に一度程度の間隔で不定期に「テンプルモーニング」という活動を行っているのだそうです。ひとことでいえば、お寺の掃除会。

時間は朝の7時半から8時半まで。最初にお経を15分間読み、そののち境内を20分間掃除。境内の落ち葉掃き、お寺のテラスにある机や椅子などの拭き掃除、お墓の古くなった花などを片づけるお墓掃除の3つを、みんなで手分けして行うのだとか。

掃除のあとは、参加者全員で輪になってお茶を飲みながら、近況報告や最近考えていること、悩み相談など、さまざまなことを話す時間。毎回、10人から20人の方々が参加しているといいます。

私は、掃除という実践に、宗教の壁を超えていく可能性も感じています。あらゆる宗教には聖地があり、その聖地を祓い清めることを大切にしない宗教はありません。

平和のために宗教間の対話が大切だと言われますが、頭ではわかっていても、実際に教義や行動規範が異なれば、結局は「うちの宗教が一番」という話で終わってしまうこともあるでしょう。言葉のみの交流には限界があります。

でも、掃除なら、そうした言葉の限界を超え、宗教の違いを超えた交流ができます。異なる宗教の人たち同士が、お互いの聖地をみんなで掃除し合ったら、世の中はもっと平和になるような気がします。(「はじめに」より)

さらにいえば、それは信仰心を持っていない人にでも通用する考え方なのではないでしょうか?

第三章「掃除が教えてくれる人生で大切なこと」のなかから、いくつかのトピックスを引き出してみたいと思います。

ありのままに感じる

著者が朝、お寺で掃除をする前にお経を読むのは、自分で声を発するとともに、まわりの人たちのお経も聞きながらこころを鎮めることが目的。

その後はお焼香をしますが、お焼香の香りにも私たちの気持ちを落ち着ける作用があるのだといいます。

境内に出て、掃き掃除をしていると、周囲からさまざまな刺激を受けます。風の音、土の匂い、雑巾の冷たさ、枯れ葉の模様、季節の移り変わり……そして、掃除が終わったらお茶を味わい、一息つきます。(112ページより)

このように、掃き掃除をすると五感を総動員することになるというのです。五感の刺激とは、まさにいま感じているもの。

つまち、「いま、ここ」に気づくために必要な環境が、境内の掃き掃除には整っているということ。(112ページより)

自分は人より優れている、を捨てる

平日、朝早くからお寺で行う掃除の会に集まるのは、向上心のある方や、なにか変化のきっかけを求めている人など、さまざまな目的を持つ人々。

初めて参加する人は、緊張とともに新鮮な気持ちで掃除することに。

また会社勤めをされている方も多く、職場での自己の向上を目指している方も少なくないのだといいます。

そういう方は普段から厳しい競争にさらされているためか、人より多く落ち葉を集めよう、人より多くの場所を磨こう、という意識が出てしまうことも。

しかし、この点に対して著者は意見を投げかけています。

がんばってくださるのは良いのですが、この姿勢は仏道における掃除の精神とは異なります。自分は掃除が「上手い」人だとアピールする気持ちが表れています。(114ページより)

たしかに、ビジネスには競争がつきもの

「他社より売り上げを上げる」「同期のなかでトップの受注成績を出す」など、“敵に勝つ”という考え方が求められるものでもあります。

とはいえ、掃除にまでその思考を持ち込んでしまっては、せっかくのお寺の掃除がもったいないというのです。

本来、掃除には「敵」も「目的」もないわけです。大切なのは、自分自身の「いま、ここ」に集中すること。そして、日々の仕事でクセになってしまった競争心や虚栄心は、落ち葉とともに掃き捨てる。

それもまた、掃除というよき習慣がもたらしてくれる効果なのだといいます。(114ページより)

掃いても掃いても…「これでいいのだ」を知る

現実問題として、掃除には終わりがありません。落ち葉は掃いても掃いても落ちてくるので、掃こうと思えばどこまででも掃けるわけです。しかし一日中、掃除だけをしているわけにもいきません。

つまり、どこかで「これでいいのだ」と自分なりに区切りをつける必要があるということ。

私の主催しているテンプルモーニングでは、時間で掃除の終わりを決めています。終わりを告げると、「あそこまでやろうと思っていたのに時間になっちゃった……」と不完全燃焼を感じる人も少なくありません。

でも、不完全燃焼のままで終えることに慣れる経験は、とても大事な人生の練習だと思います。これがうまくできないと、完璧主義に陥り、何もかも完璧にこなさないと満足できない人間になってしまいます。(120~121ページより)

掃除だけでなく、あらゆるものごとに完璧はないものです。

そのため完璧主義になると、理想と現実が大きくずれてしまい、ちょっとしたことで燃え尽きてしまう危険が高まるのだといいます。だとしたら、生きづらさが増したとしても当然です。

しかし掃除を行うことは、「これでいいのだ」と区切りをつける練習になると著者は言います。

完璧を目指すのではなく、自分なりの基準をつくることで、「これでいいのだ」という満足した生き方ができるということです。(120ページより)

思い通りにならないことを知る

掃除は、思い通りにならないことの連続。梅雨の時期はカビの対策をする必要性が生じますが、とはいえ季節や天気に文句を言っても仕方がありません。

また、雑草や害虫も知らず知らずのうちに増えていくでしょうが、彼らの活動をコントロールすることなど不可能。

しかし、たとえ自分にとって好ましくない状況が訪れたとしても、こころを乱さずに現実に向き合う必要があるのだと著者は主張しています。

自然環境だけでなく、人間関係もまた思い通りにはならないもの。たとえばお寺の掃除にも、大企業の会社員から大学生までさまざまな人たちが集まるそうですが、そこでは普段慣れ親しんだコミュニケーションは通用しないわけです。

なぜなら、自分を気にかけてくれる部下や友だちはいないから。だからこそ、思い通りにならない人間関係に抵抗するのではなく、周囲に合わせて順応しなければいけないわけです。

お釈迦さまは、人間の苦の種類を、四苦八苦で表現しました。生老病死の四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)です。

このうち、愛別離苦と怨憎会苦、つまり愛する者と別離すること、怨み憎んでいる者に会わねばならないことという、人間関係に関するものが二つも入っているのは、示唆深さを感じます。(122~123ページより)

私たちの世界は、「思い通りにならないこと」ばかり。著者も掃除をしながら、「思えば我が人生、思い通りにならないことばかりであった」と知らされることが多いのだそうです。(122ページより)

先に触れたとおり、特別な信仰心を持たない方でも抵抗なく入り込める内容。そして結果的には掃除を通じ、忘れかけていた大切なことを思い出すことができそうです。

Photo: 印南敦史

Source: ディスカヴァー・トゥエンティワン

メディアジーン lifehacker
2019年6月17日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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