『じじばばのるつぼ』
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確かな“視力”で描く、じじばばあるある――群ようこ『じじばばのるつぼ』
[レビュアー] 吉田伸子(書評家)
群さんと初めてお会いしたのは、もう三十年以上前のことだ。まだ「群ようこ」になる前の群さんと、学生だった私が出会ったのは本の雑誌社だった。本の雑誌社の“助っ人”募集に応じ、当時はまだ不定期刊だった「本の雑誌」の配本部隊として出入りしていた私と、事務所の一角で、机に向かって事務仕事をこなしていた群さん。今でも、群さんの小柄な背中が目に浮かんでくる。
やがて、群さんは群さんとなって(というのも変な言い方だけど)、『午前零時の玄米パン』(めっちゃ売れた!)を上梓し、しばらくして群さんは本の雑誌社を退職された。三作目の『無印良女(りょうひん)』で、人気エッセイストとしての確固たる地位を築き、『無印OL物語』を皮切りにした「無印シリーズ」では小説家としても根強い支持を得た。世の中には、“なるべくしてなった”作家の方がいるけれど、群さんもその一人。群さんは群さんになる前から、群ようこの片鱗をうかがわせていたのだ。
群さんがいた当時の本の雑誌社は、事務所に群さんしかいない!(社長の目黒さんはフリーランスで仕事をしていたし、編集長の椎名さんに至っては、人気エッセイストとして文字通り駆け回っていた)ということが常態だった。そこに、私たち“助っ人”が、大学のサークルのようにたむろしているわけで、経理を始め、本の雑誌社の事務仕事を一手に支えていた群さんにとって、私たちは騒々しくてお気楽なだけの、こうるさい存在でしかなかったはずだ。だけど時折、きりりとしたその背中がくるりと回って、私たちの話の輪に加わることもあり、そんな時の群さんの話術がもう、絶妙だった。そもそも群さんは聞き上手で、時折入る合いの手がこれまた抜群。なかでも群さんの人物描写は名人級というか、面白おかしく語られるその人物が、あたかも目の前にいるかのようだった。
そんな群さんの話術の巧みさが、群さんのエッセイの芯になっていると私は思っているのだけど、その巧みさは歳を重ねたことでさらに円熟味を増してきている。その証が本書だ。タイトルからもわかるように、本書は高齢化社会ニッポンの「じじばば」たちを描いたもので、じじばば「あるある」が満載。そして、そうだった、群さんの卓越した話術を支えているのは群さんの視力(生理的なものではなくて、視る力、という意味です)なのだ、と再認識する。
冒頭の電車を待つ列におけるばばたちの横入りに対する考察――ホームドアができたおかげで、体のバランスを崩し線路に転落する恐れがなくなったため、心置きなく横入りできるようになったのではないか――に頷いたあとは、ページを繰るごとに、もう、出てくる、出てくる、あなたの周りにもいそうな、というか確実にいる、あんなじじ、こんなばば。
自分がストッパーになって、後ろには長蛇の列ができているというのに、スーパーマーケットのレジ担当者を、自分専用おしゃべり担当に(一方的に)認定し、延々と世間話を繰り広げるばば。
電車に乗る際の、押した押されたに端を発し、いざ下りる時には、蹴り合いのバトルにまで発展してしまった、ばば初心者見習いvs.おばさん予備軍。「痩せているのが美しい神話」に未だに囚われ続け、全身をハイブランドで固めているのだが、傍目には「即身仏」のようにしか見えないがりがりばば。某ショップにて、妙に達者な発音で「ショーツ」(大人用の半ズボン)を求め、そのショップでは扱っていないことが判明すると「だいたいさあ、きみたちは衣食住にさまざまな提案をしている企業なんでしょう。(中略)そんな会社がショーツの一枚も作っていないなんて、そりゃあ、だめだ。だめだめ」と説教をかます、俺様じじ(正確にはじじ予備軍、プレじじである)。電車内で白髪頭をかきむしり、自分の隣の席にフケをこんもりと積み上げる不潔じじ。
本書で語られているのは、じじばばたちのありがたくない「あるある」だけど、「下流じじ」に出てくるじじの姿は、プレじじ、プレばばはもちろん、若者世代にも、通じることだと思う。もはや安穏な老後を送れるのは、ごくごく少数の選ばれしじじばばだけだ。そんななかで、どうすれば「人として下流」にならずに済むのか。本書は、そのことに警鐘を鳴らしている。笑いながらも、大事なことに気づかせてくれる一冊なのである。(よしだ・のぶこ 書評家)