【文庫双六】元M16の英文学者が描く地味なスパイ小説――野崎歓

レビュー

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元M16の英文学者が描く地味なスパイ小説

[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

【前回の文庫双六】イングランドが舞台の胸おどる冒険物語――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/571648

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 第一次世界大戦時、アーサー・ランサムがイギリス情報機関のために活動していたことは、現在では定説となっている。新聞の特派員としてロシア革命政府を取材しつつ、MI5(保安局)に情報を提供していたのだという。

 イギリス文学にはスパイ経験をもつ有名作家が何人かいる。イアン・フレミングやジョン・ル・カレ、サマセット・モームの名がすぐに思い浮かぶ。グレアム・グリーンもその一人で、第二次大戦中はMI6(秘密情報部)に所属していた。

 情報部員カッスルを主人公とする『ヒューマン・ファクター』にはその経験が生かされているのだろう。面白いのは、情報部員の日常が判で押したような地味さで描かれていることだ。007的な活劇とは無縁。しかもカッスルは定年を過ぎていて、なぜ自分がまだ雇われているのかわからない。気力も衰え、引退後のことばかり考えている。たそがれた風情に物語の味わいがいや増す。

 彼はかつて南アフリカで知り合った若い黒人女性を妻とし、彼女とその連れ子を熱愛している。それが彼の弱みともなり、後半の展開に影を落とす。

 本好きにとってたまらないのは、諜報活動の小道具に『戦争と平和』などの書籍が用いられること。行きつけの書店主が忘れがたい印象を残す。トルストイなら作家本人の友人だったエイルマー・モードの訳に限るなどと心憎い助言をする。とはいえ店は繁盛していない様子。「閑(ひま)なものです。閑すぎるほどで。世のなかは変わりましたね。一九四〇年代には、世界古典文学の新刊が出るたびに、みんな列を作ったものだ。それが今や偉大な作家の需要がほとんどないありさまです。」

 店主のぼやきに思わず相槌を打ちたくなる。

 スパイ小説という分類を超えた傑作と称えられるのは、こうした細部の面白さによるところが大きい。嬉しいことにこの書店主には、ぼやきばかりではない重要な役も振られている。

新潮社 週刊新潮
2019年7月4日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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