『死体は誰のものか』
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比較文化史の視点で考える私たちの「さいごのわがまま」
[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)
自分が死んだら、先祖代々の墓に入る。疑いもなくそう考えている人は、もしかしたらすでに多数派ではないかもしれない。死後も配偶者と同じ墓に入るなんて絶対にいやだという人、散骨などで自然の風景のなかに消えていきたい人、墓守りをする子孫がいないためにそもそも墓に入るという選択肢を選びにくい人もいて、理想の埋葬のあり方も多様化している。
そろそろ死体をめぐる「常識」を見直し、死者との新たな向き合い方を模索する必要がある。上田信『死体は誰のものか 比較文化史の視点から』は、人類の死体の扱い方がきわめて多様であることを教えてくれる。
清代の中国では、死体はゆすりの材料によく使われた。「あいつに殺されたのだ」と主張するためにその死体が見えるようにしておくやり方は、現代中国にも残る。つまり死体を存分に活用するのだ。いっぽう、事故などで家族が亡くなった場合、遺体返却にこだわらないのはキリスト教徒だ。この本では、そうした事実に加え、映画に登場するゾンビやキョンシー、日本神話のイザナミ、聖書における復活など、それぞれの民族の死生観をあらわす物語も見ていく。ひとつひとつの印象はずいぶん違う。死体はこう扱うべきであるなどと、一概に言えなくなる。
自分の死体をどう扱ってほしいか。それは、自分が世の中に甘えてよいことの、さいごの一つだ。心して考えたい。