『権力と音楽 アメリカ占領軍政府とドイツ音楽の「復興」』
[レビュアー] 岩田温(政治学者)
■数奇な歴史に衝撃の連続
「ドイツ的でなくして音楽家でありえようか」とはトーマス・マンの言葉だ。ドイツ音楽に対する国民の誇りを端的に表現している。このドイツ音楽を政治の道具に利用したのがナチスだった。党大会やヒトラーの誕生日、そして占領地域において、高名なベルリンフィルハーモニーの演奏を行い、ナチスの威信を高めたのである。
ナチスドイツの敗北後、ドイツ音楽がたどった数奇としか評しようがない歴史を膨大な史料を基に描き出したのが本書だ。衝撃の連続とでもいうべき内容だった。
戦後、ドイツ音楽はナチズムに汚染されているとの前提で、米国の占領軍によって徹底的な非ナチ化が図られた。演奏者は占領軍政府に登録せねばならなかったし、演奏会場や劇場が全て認可制になった。コンサートで演奏される作品も、占領政策をつかさどる情報統制局に検閲された。ナチスが政治利用してきたリヒャルト・シュトラウス《英雄の生涯》やベートーベン交響曲第三番などが「特定の演奏文脈に照らして、一定期間演奏を禁止されるべき」とされる一方、ナチスが排除してきたメンデルスゾーンをはじめユダヤ人作曲家、ドイツ人以外の作曲家の音楽、そしてアメリカ音楽の演奏が推奨された。
だが、ドイツ音楽の非ナチ化の方針は政治的情勢によって変更される。米国と対峙(たいじ)したソ連がドイツ音楽の非ナチ化を図ることよりも、偉大なる芸術の支援者として振る舞っていたからだ。冷戦の最前線であるドイツにおける政治的目標が非ナチ化よりも反共化に置かれると、米国はドイツ音楽の擁護者として自らを任ずることになる。
米ソ両国の思惑と文化政策の中、廃墟(はいきょ)の中からドイツにおける「瓦礫(がれき)音楽」が立ち上がる。戦後、ドイツで古典音楽が生き残ったのは、米ソの文化政策があってのことだった。彼らはよき理解者としてドイツ音楽を扱おうと試みた。仮に彼らが徹底的にドイツ音楽を排撃していれば、ドイツ音楽が生き残ることはできなかったはずだ。
権力と音楽とは不思議な共存関係を示す。本書を読み、善きにせよあしきにせよ「政治的でなくして音楽家でありえようか」と思わずにはいられなかった。(芝崎祐典著/吉田書店・2800円+税)
評・岩田温(大和大学専任講師)