「前代未聞がしょっちゅう、って矛盾している」 武田砂鉄が“大阪二児置き去り事件”を題材にした小説を読んで思ったこと

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つみびと

『つみびと』

著者
山田 詠美 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784120051920
発売日
2019/05/22
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

黒には白が残り、白には黒が混ざっている

[レビュアー] 武田砂鉄(フリーライター)

 大きな事件が起き、その犯人が誰だかわかった時、人は、その犯人が、自分とは違った境遇の人であってほしいと願う。ひきこもりだったそうです。よかった、自分はひきこもりじゃない。一人親家庭だったそうです。よかった、自分の家はそうじゃない。親から虐待を受けてきたそうです。よかった、自分はそうじゃないし、やっぱりそういう人がやりがちだよね、なんか夜の仕事してたらしいし、ほら、そういう人って、こういう事件をよく起こしてない? ……特定のカテゴリにあてはめて、自分とは違うと安堵しながら、思いっきり怖がってみせる。

 誰かを殺めたモンスターのモンスター度合いを高めるのは、当人ではないのかもしれない。異様な事件を知り、どこまでも異様であってほしいと願うという防衛機制が、方々で膨らんでいく。「悪」を集約させたいのだ。集約させておいて、そこから逃げたいのだ。その行為って、「悪」ではないのだろうか。メディアでは「前代未聞」の事件といった言葉がしょっちゅう踊る。前代未聞がしょっちゅう、って矛盾している。理由を探し当てながら、こんなことって今までなかったよね、と怖がる。自分から犯人を遠ざけられれば、それでいいのだ。

 実際に起きた二児置き去り事件をモチーフにした本作は、主に、狭いマンションに幼な子を置き去りにした蓮音、そして、その母親・琴音の視点から交互に綴られる。琴音は夫・隆史から暴力を受け続けてきた。そんな母を、蓮音は「母は、私に、どうにも出来ない悲しみを教えた。そして、同時に、失ってはならない温もりを与えてくれた人でもあるのだ」「私とママは、とても似ていて、けれども、まったく違う人間なのだ」と受け止めてきた。輪姦された経験を抱え、人として否定されることに慣れてしまった蓮音は、「自分自身の人生にいちゃもんを付けて駄々をこねている面倒な奴と、とうに烙印を押されていた。人並みに生きられない阿呆だと後ろ指を差される」存在だと自認してきた。母親は自分と弟妹を置き去りにし、自分は息子と娘を置き去りにした。周囲の人々は「血筋」を持ち出し、蓮音の存在を手短に片付けようとした。だって、あの子の娘だもん。急いで紐付けし、だからこうなった、と理由を探した。

 マンションに残され、ママの帰りを待つ子供たちが「れーじょーちょ、れいじょーちょ」とうわ言のように呟きながら、這って冷蔵庫に向かっていこうとするものの、その余力は残っていない。そびえ立つ白い塔には、冷たいジュースやアイスクリームが入っていると知っている。でも届かない。時折帰ってくるママを見て、「ぼくらといない時間が増えてる」と気づく。必要最低限のことだけを済ませ、何日か後まで帰らないママ。「ママ、今度、いつ来てくれるの?」との問いかけに、ママは溜息をつき、腹を立てる。自身が腹を立てたことに落ち込みながらも、数日分の下着などをバッグにつめて出かけていってしまう。

 かつて、蓮音は、自分のまわりに幸せを集めようと、必死にブログを書いていた。タイトルは「ハスのHappy Diary♡」。自分は幸せだと言い聞かせるために、強引に幸せを作り、収集し、ひけらかした。やがて、その幸せを手繰り寄せる日々が鬱陶しくなる。幸せを維持するためには、幸せを捕獲し続けるしかないのか。そのためには何かを犠牲にしなければならないのか。目の前に選択肢が与えられ、こっちのほうが幸せになれそうだと選ぶ。選ばなかったほうへの後ろめたさが、即物的に得た幸せを蝕んでいく。「れーじょーちょ、れーじょーちょ」の声が聞こえる。幸せに固執し、囚われ、翻弄される。

 後戻りできなくなってからも、目の前に幸せを用意したがる。世間が求める幸せと、自分が獲得した幸せとの違い、獲得できなかった幸せとの差異に苦しむ。自分のために作る幸せではなく、既存の幸せに最後まで体を寄せてしまう。与えられた構図を無視すれば自由になれたのかもしれないが、慣習を無視して自由を獲得する様子を世間が許したとも思えない。

 後ろ指を差される自分を麻痺させる。麻痺から戻った時に、自分が自分である理由を積極的に保てなくなる。物語の最後部に出てくることもあり、さすがに詳細を省くが、蓮音から放たれた「あと、蒲焼さん太郎」との一言が持つ体温に困惑する。体温、と書いたけれど、それが冷たいのか、温かいのかもわからない。ただ、そこに体温があることだけがわかる。この感覚は本作に通底する。本のオビには「本当に罪深いのは誰─」とある。本人が悪いのか、血が悪いのか、男が悪いのか、社会が悪いのか。その全てが悪いのか、どれかだけが悪いのか、わからない。わかってはいけない、と知らせる小説なのか。

 この本を読んでいる最中に、川崎で通り魔事件が起き、多数の死傷者が生じたとのニュースを知る。ネットを中心に「死ぬなら一人で死ね」という「本音」が噴出し、その発言を咎めようとする識者に「弱者救済商売」なる揶揄をぶつける動きが見受けられた。このところ、強者の意見を振りかざすことにためらいのない大物芸人は、「人間が生まれてくる中で不良品が何万個に一個あるのはしょうがないと思うんすね。それをみんなの努力で減らすことはできるのかなと」と述べた。生きるべき人間と生きてはいけない人間を区分けし、「死ぬなら一人で死ね」との空気感を増長する。こういう本音を歓待するメディアに慣れ親しむと、私たちは、自分を社会と照らし合わせながら、生きていてもいい理由を探さなければならなくなる。その理由がすぐに見つかる日もあれば、見つかりにくい日もある。しばらく見つからなくなると、人は自分に責任を求め始めてしまう。今、そこにある暮らしが歪む。その様子を見た外の人たちは助けてくれない。ああゆうふうにだけはならないようにしようと、距離を置かれてしまう。

 家に放置した幼な子が死んだ、という事実がある。誰に責任があるのかを明確化したくなる。数式のように、図式のように提示する。だが、罪は、真っ白と真っ黒ではない。黒には白が残り、白には黒が混ざっている。黒に残る白を見つめると、加害者を擁護するのか、なんて言われる。「つみびと」とは一体誰のことだろうか。そもそも、この世の中に、「つみびと」ではない人なんているのだろうか。

 母と娘、逞しさと脆さが同居した心象を拾い上げながら、痛ましい事件が生まれてしまった過程を事細かに綴る。綴っても綴っても、一つの理由は見えてこない。なぜ、どうして、という問いかけを引き受けつつも、答えの出ない言葉の羅列から現実が浮き上がってくる。小説だからこそ書けた現実がある。そして、テレビから聞こえてくる「死ぬなら一人で死ね」という現実もある。理由を一つに絞り、私とは違うと安堵する行為によって他者がどう歪むのか、この小説は静かに知らせてくれる。テレビをつけたまま、困惑している。

河出書房新社 文藝
2019年秋季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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