足下の危ない気配が途切れない摩訶不思議な芥川賞受賞作
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
摩訶不思議な小説である。読み終えた途端に、自分は何を読んだのだろうと問わずにいられない。蜃気楼が現れてすぐに消えてしまったような感覚だ。ファンタジー小説ならそういうこともあろうが、これはジャンル小説ではないし、非現実的なことが起きますよという先触れめいたものもない。にもかかわらず、足下が危ない気配が最後まで途切れないのである。
主人公の「わたし」は、近所に住む「むらさきのスカートの女」が気になっている。若い子のように見えるが、近くで見れば決して若くはないし、知っている人たちに似ているようでもあるが、よく考えるとちがう。「わたし」はその女と友だちになりたいと願い、彼女の行動を観察する。仕事には就いたり就かなかったりで、間もなくお金が底をつきそうだと予想し、自分と同じホテルの清掃の仕事に就くよう誘導する……。
「わたし」はこうしたおせっかいを、女にまったく気づかれずに行う。相手に姿を見られずに行動するところが透明人間のようだし、両者の眼差しがほとんど交錯しないから、女と「わたし」の世界が別次元で進行しているような異様さもある。
もうひとつ気になるのは、物語の語り手と作者の関係である。ふつう作者は物語の外にいて、語り手とのあいだに尾行する探偵にも似た距離がおかれるものだ。両者が別の人格だとわかるから、主人公の奇妙な行動も平静に読み進められるのだが、この小説にはそうした軸がない。作者と「わたし」がほとんど一体化しているような瞬間があり、「わたし」のあやうさは、書き手のあやうさにもつながっている。
何ひとつ確かなものがない場所に両者は立っているのであり、そこに滲みだす懸命で切実な空気が来るべき時代を予感させる。物語はリーダブルでおもしろく、このような複雑なことを考えなくてもするすると読めるのも好ましい。先週の発表で本作は第161回芥川賞を受賞した。