『夏物語』
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女たちの「処女生殖」の夢 父の不在と母の過剰
[レビュアー] 上野千鶴子(社会学者)
『夏物語』は、夏目夏子の物語、そして女の夏、太陽が天心にあって孕み産む充実の季節の物語。
女のライフイベントで出産に勝る重大なイベントはない。年長の女性たちを対象に、これまでの生涯でもっとも記憶に残る経験は何ですか? という問いに対して、最も高い頻度で挙げられるのは、最初の出産経験であって、結婚式などではない。出産の感動の前には、結婚式の喜びなど、霞んでしまうようだ。出産をした女性の表現者が、自分にとってもっとも切実なその経験を、きちんと言語化しようとしないのを、不審に思ってきた。
生まれることに自己決定はない。だが産むことには自己決定がある。この目も眩むような非対称を、どうやって埋めればよいのか? 母になる女たちは、この暗渠をどうやって越したのか? どうすれば、そんな無謀で勝手な選択ができるのか?
わたしはその暗渠の前で、立ちすくんだ女だ。作者の川上はその暗渠を飛んで、子どもを産んだ。実生活で結婚し、出産した川上が、自分の経験をどのように作品化するのか、わたしは心待ちにしていた。川上は、主人公の夏子、一度は暗渠の前で立ちすくんだ女に、物語のなかで、暗渠を飛ばせてみせる。
妊娠が自然の手に委ねられている時代には、こんな問いはなかった。避妊法を知らず、運命のように妊娠し、母になる宿命を受け入れた。だが、妊娠と出産が人為的にコントロールできるようになると、子どもは「授かる」ものから、「つくる」ものになった。そこに生殖技術が介入すれば、子どもはますます「努力してつくる」ものに変わった。そして「母になること」が、いまだに女の「上がり」と思われている社会では、子のない女は「なぜ努力しないの?」と問われるようにさえなった。
夏子はセックスを受け付けないシングル女性。パートナーはいない。38歳という年齢の設定は、バイオロジカル・クロックの期限が迫っていることを示す。一度だけ小説が売れたことのある、売れない、書けない作家。社会的にはおよそ母になる条件がそろっていない。
その夏子がAID(人工授精)という方法で、母になろうと決意する。生殖技術は、本人の自己決定がなければ適用されない。あらゆる悪条件にもかかわらず、母になることを自己決定する主人公を設定することで、作者は、「産むこと」の自己決定とは何か? という、怖ろしい問い、だが、これまでほとんどの産んだ者たちがスルーしてきた問いに、正面から立ち向かう。その答えは、わたしを納得させただろうか?
物語の前半は、夏子の濃密な家族関係が描かれる。川上は芥川賞受賞作『乳と卵』で、女が成熟した女の肉体を持つようになることに、激しい嫌悪を示した。その復元のような大阪弁の導入部で、作者は自分史をふりかえる。かつて姉の身体に嫌悪を示した妹だった主人公は40代に近くなっており、その思春期の少女の嫌悪を、姉の娘の緑子が代弁する。世代はめぐったのだ。巻子と夏子の姉妹の母は、シングルマザー、巻子自身もシングルマザー。夏子も、セックスなしのAIDでシングルマザーになろうとする。
そういえば、『夏物語』には、女たちばかりが登場する。夏子の担当編集者である仙川涼子はシングル、友人の遊佐リカはシングルマザー、AIDシンポで出逢った善百合子もシングル、夏子のかつてのパート仲間も女性ばかり。男性は、かつての恋人でセックスがうまくいかなかった成瀬くんだが、彼は回想のなかでしか登場しない。生身の男はAID当事者の逢沢潤だが、彼との淡い交情のあと、セックスなしで精子の提供を受けるが、父になるわけではない。
川上は産むことをめぐって、肯定と否定の両極端の人物像を造型してみせる。
ひとりは夏子の友人の遊佐、バージニア・ウルフを研究する英文学者として戯画化して描かれる大学教員の夫を捨てて、シングルマザーになることを選んだ女性だ。経済力も実家の支援もあり、夫に依存する理由はない。その遊佐が子どもを産んで、こう言う。というか、子どもを産んだ遊佐に、作家はこう言わせる。
「子どもを産むまえのわたしは愛のことなど、何も知らなかったこと。世界の半分が手つかずだったこと。子どもを産まなかったらと思うと心の底からぞっとする。こんなふうな存在があることを知らないままだった可能性があると思うと、それだけで恐ろしい気持ちになる。(略)これは何ともくらべることのできない最大の贈りものだった。何にも替えられない、わたしの人生において、これ以上の出来事はない、存在はない」
手放しの母性賛歌である。
他方、性虐待を受けてきた善百合子に、こう言わせる。
「もしあなたが子どもを生んでね、その子どもが生まれてきたことを心の底から後悔したとしたら、あなたはいったいどうするつもりなの」
「どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」
「子どものことを考えて、子どもを生んだ親なんて、この世界にひとりもいない」と善に言わせる作家は、産むことのエゴイズムを熟知している。
産むことを「とりかえしのつかない過ち」と呼んだのは、戦後最大のニヒリスト、埴谷雄高だった。この観念小説のような思考実験のなかで、主人公の夏子に作者はこう言わせる。
「わたしがしようとしていることは、とりかえしのつかないことなのかもしれません。(略)こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも(略)間違うことを選ぼうと思います」
だが、間違いのツケを支払うのは、子どもたちの側なのだ。
出産の感動のなかで涙を流しながら、夏子はこう感じる。
「その赤ん坊は、わたしが初めて会う人だった。思い出のなかにも想像のなかにもどこにもいない、誰にも似ていない、それは、わたしが初めて会う人だった」
人が人をこの世にあらしめる、この目の眩むような、神をも怖れぬふるまいを、女たちはやってのける。「何もこわくない」と。
夏子が産んだ子どもは娘だった。娘でしかありえない。この世界に男の居場所はないのだ。産むこと、生まれることについて考え続けるのは、なぜ女ばかりなのか。
作者はわたしの疑問に答えてくれなかった。答えは、たぶん、ない。ないことを、作者は自覚している。だが、それでも女たちは目をつむって暗渠を飛び続ける。いつまで? 暗渠の前でためらう女たちに、母になった女たちは、いったいどんなメッセージを送るのだろうか?
川上未映子は、自分が立てた問いの前に、立ち続けなければならない。