墨の濃淡のみで森羅万象を表現水墨画の醍醐味を描く美術小説
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
一本の線が引かれていく。
その線を目で追っているうちに、いつの間にか確かな質感を持った情景が浮かび上がってくるのである。そこに世界が生まれると言ってもいい。
砥上裕將(とがみひろまさ)『線は、僕を描く』は第59回メフィスト賞を獲得した作者のデビュー作だ。砥上の本職は水墨画家である。毛筆を用い、色彩に頼らず、墨の濃淡のみで森羅万象の全てを表現する。独自の進化を遂げたこの芸術を余すところなく作者は描いた。他に類例のない、驚嘆すべき一作である。
主人公の青山霜介(そうすけ)は法学部の大学生だ。高校生のときに両親を交通事故で失って以来、人生の時間は停まってしまっている。大学に通い、食事をし、生きてはいるのだけど、自分の心の中だけに存在する箱の中で暮らしているようなものなのだ。
その霜介が、日本を代表する水墨画家・篠田湖山(こざん)と偶然出会い、内弟子にすると宣言されることから話は始まる。彼のことなど何も知らないはずなのに、湖山は初対面の霜介を見込んだようなのだ。この気まぐれはいったいどういうことなのか。
まったくの未知の領域に踏み込んだ者が世界の奥深さを知っていく楽しみがこの小説には満ちている。たとえば墨をするという行為一つをとっても漫然と行われるわけではない。霜介を教授するかなり初期の段階で湖山は言う。「水墨を描くという行為は独りであるということとは無縁」であり、「自然との繋がり」と「いっしょになって」描くのだと。この言葉の意味に霜介はずっと後、初心者の卒業課題であるという菊に取り組む際に気づくことになる。
冒頭に書いたように、眼前で線が引かれていくのを見守るような気持ちにさせられる小説である。完成した作品ではなく、それができていく過程への興味が中心になる美術小説なのだ。一口で言うなら現在進行形の魅力であり、自分が物語と一体化する感覚をたびたび味わった。