ロバート・キャンベルが井上陽水の歌詞を翻訳、「わけのわからなさ」と格闘

レビュー

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井上陽水英訳詞集

『井上陽水英訳詞集』

著者
ロバート キャンベル [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784065131312
発売日
2019/05/16

書籍情報:版元ドットコム

「井上陽水」歌詞の翻訳は「わからなさ」との格闘

[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)

 日本文学の英訳といえば源氏物語や村上春樹が有名だが、もっと多様な作品がまんべんなく翻訳されればいいのにと思う。たとえば歌詞。確かに、ごく他愛ない「失恋ソング」「励ましソング」が氾濫する現代ではあるが、文学者が真剣に取り扱うべき歌詞も存在する。そこに光をあててくれたのが本書だ。

 井上陽水の歌詞は難解だと言われる。それをわたしの言葉で説明すれば、陽水の歌詞は「伝達性」よりも「表現性」を優先している、ということだ。伝達度が低くて表現度の高い言葉は、要するに意味がわかりづらい。これは現代詩の宿命でもあって、「何を言いたいのかわからない」と言われるソングライターには親近感をおぼえる。

 東京大学のキャンベル先生が陽水の歌詞を翻訳したのは、ほんとうにすばらしいことだ。この「わけのわからなさ」との格闘こそが、文学者の仕事だから。この本には、陽水の歌詞とその英訳が50篇収録され、翻訳の過程で著者自身が陽水と対面して質問したり討論したりした内容もたっぷり記されている。著者が大きな病を得て、あすの命をあやぶみながらこの試みをスタートさせたときの状況も、静かだが印象的な言葉で描かれている。

 ラブソングなのに甘い愛の言葉が使われていない「ジェラシー」。女性のハンドバッグから化粧品がこぼれ落ちて海の波にのまれていく描写や、「ワンピースを重ね着する君の心」といった言葉から、女性が取り繕っていた外面、体の線をかくしていた二枚目のワンピースという暗示を、著者は読み取っていく。傑作「とまどうペリカン」では、登場するライオンとペリカンの性別などをめぐって陽水と意見をかわす。わたしが求めていた日本文学の翻訳書とは、こういうものだったのだ。粘り強い「読み」が説得力のある翻訳に結実し、「わからなさ」をじわじわと追い詰めている。すぐれた翻訳は、同時に、鋭い批評でもあるのだ。

新潮社 週刊新潮
2019年8月1日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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