『夢の女』
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苦界に身を沈める武家娘を描く荷風
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
【前回の文庫双六】19世紀、仏美術界の舞台裏を描いたゾラ――野崎歓
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ゾラ(一八四〇-一九〇二)の日本での受容は早く明治二十年代には作家たちに広く読まれた。
社会の暗黒面を描くことを特色とするゾライズムという言葉も生まれた。
そのゾラの影響を受けたのが若き日の永井荷風。ゾラの小説を要約した『女優ナナ』や、『獣人』を下敷にした『恋と刃』を書いたし、初期の作品『野心』『地獄の花』は明らかにゾラの影響を受けている。
さらにゾライズムの影響のもと、男性社会に翻弄されてゆく女性を描いた『夢の女』がある。明治三十六年に新潮社の前身、新声社から出版された。
主人公のお浪は旧岡崎藩の藩士の娘。明治維新によって武士階級が没落したため、お浪は十代で富裕な商人のもとに働きに出、やがてその妾となった。
そこからお浪の流転の人生が始まる。妾として女の子を生みながら主人が急死したため、お浪はやむにやまれず子供を里子に出し、遊廓の娼妓になる。
お浪は零落した両親のためにあえて「苦界に身を沈める」。明治維新のあと敗残の武家の娘が家のために身を売る悲しい話は多くの作家が書いているが、『夢の女』はその代表例。
お浪が身を沈めるのは深川の洲崎(すさき)遊廓。もとは根津にあった遊廓が近くに東大が出来るので風紀上問題として洲崎に移転した。
戦後はいわゆる赤線に。芝木好子原作、川島雄三監督の戦後の洲崎を舞台にした『洲崎パラダイス 赤信号』(56年)は私見では川島作品のベスト。
お浪は金持の客に見染められ、待合の女将になるが、その後も父の事故死、妹の駆け落ちなど不幸が続く。ゾラの『居酒屋』を思わせる落魄が続いてゆく。
お浪は美しい。心延(こころば)えがいい。落ちぶれた両親のために進んで娼妓になる。家族の犠牲となって働く。その労苦が報われない。夢の女というより哀しい女。
一九九三年に坂東玉三郎が監督して映画化。吉永小百合がお浪を演じた。