[本の森 仕事・人生]『百の夜は跳ねて』古市憲寿/『慟哭は聴こえない デフ・ヴォイス』丸山正樹
[レビュアー] 吉田大助(ライター)
この社会の有り様を説明するうえで、もっとも象徴的な存在は何か。タワーマンションのガラス清掃員だ、と古市憲寿は長編第二作『百の夜は跳ねて』(新潮社)で記す。誰もが目にしていながらも、詳しい内実は知らない。見えているのに見ていない彼らの仕事や人生について語れば、社会全体を描写することに繋がっていく。そう自信を持って、作家は筆を進めている。
東京に暮らす二二歳の翔太はゴンドラに乗って、タワーマンションやビルの窓ガラスを清掃する。洗浄剤混じりの水を、清掃用具で「掻い」て「剥ぐ」から「かっぱぐ」。口にしてみたくなる音感を伴った専門用語が、物語に独特なビートを呼び込んでいる。高度二〇〇メートル超にいるにもかかわらず、恐怖心が麻痺した状態にある翔太の耳には、死者の声が聞こえる。例えば――「俺たちはぎりぎりの場所に立っている。このガラスの向こう側は絶対に死にそうもないやつばかりで、たった1センチこっちはいつ死んでもおかしくない。格差ってのは上と下にだけあるんじゃない。同じ高さにもあるんだ」。窓があるということは、人が住むための場所であるということだ。翔太は毎日かっぱぎながら、無数の窓の向こう側を覗き込む。
盗撮を依頼してくる老婆やゴンドラに同乗する会社の同僚たち、市議選への立候補を決めた母との交流を経て、就活の失敗以来どこか心が凍結していた翔太は、少しずつ回復していく。そうしたストーリーラインは青春小説の王道とも言えるが、本作の何よりの魅力は膨大なエピソードの量、現代社会を素描するディテールの恐るべき分厚さにある。タワーマンションのガラス清掃員という設定を選んだからこそ、それらを集めて束ねることができた。
丸山正樹の『慟哭は聴こえない デフ・ヴォイス』(東京創元社)は、手話通訳士・荒井尚人を主人公にしたシリーズの第三弾だ。ろう者の産婦人科の検診に付き添って医師の言葉を手話で通訳し、耳が聞こえないことを「売り」に、モデルとして活動する男性をサポートして、勤め先を雇用差別で訴えている、ろう者の民事裁判の法廷通訳を買って出る……。もっともミステリー色が強い「第3話 静かな男」は、簡易宿所で変死体として発見された中年男性の身元を巡る物語。さまざまな登場人物たちが現れて、彼についての記憶を付け足していく。その先に現れる人間ドラマは、手話通訳士が主人公だったからこそ着想され、追求できたことは間違いない。
手話通訳士は日常生活の中でなかなか出会うことも見かけることもない、極めてマイナーな仕事だ。そして、マイナーな場所に立つからこそ見える、社会の有り様がある。小説家たちが作品を通して描き出した社会像。その点と点とを繋ぎ合わせて大きな像を作るのは、読者の仕事だ。