黄金夜界 橋本治著…中央公論新社

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3
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黄金夜界

『黄金夜界』

著者
橋本 治 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784120052101
発売日
2019/07/09

書籍情報:版元ドットコム

黄金夜界 橋本治著…中央公論新社

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

 尾崎紅葉の『金色夜叉(こんじきやしゃ)』は、一八九七年から足かけ六年にわたり読売新聞に連載されたが、作者の病気によって未完に終わった。『黄金夜界』は、時空を二十一世紀の東京に移しかえて、この名作のあらすじを再演してみせる。原作の百二十年後に本紙での連載が始まり、奇(く)しくも作者の最後の長篇(ちょうへん)小説となったが、こちらはみごとに完結している。

 ヒロインの美也が結婚する相手は、原作の富豪の息子ではなくIT長者。しかも結婚前からすでにファッション誌の女子大生モデルとして活躍し、自立できる経済基盤をもっていた。そして美也が別れた恋人、貫一はやはり東大生であるが、別離の衝撃をうけ、身を落として働く先は「ブラック企業」の居酒屋チェーン。いかにも現代のIT化や格差社会を反映した設定である。

 だがもっとも大きく異なるのは、彼らの心のありさまだろう。美也がIT長者との結婚に走るのは、没落しかかった親を助けるためではなく、自信がもてず、他人の言葉に従うことで自分を変えようと思ったからである。同じような「空洞」を貫一もまた抱え続ける。ぎこちないすれ違いによって別れた結果、二人とも他人の視線や、人間関係のぬくもりを怖(おそ)れ、避けるようになってしまった。

 貫一が起業した小さなメンチカツ専門店――客との交流は最小限に抑えられる――で、彼らは原作ではなしえなかった再会をはたすが、悲しい結末を迎えることになる。そうした展開から伝わってくるのは、現代の世の中に対する、アイロニーに満ちた視線にほかならない。

 表面だけがきらびやかで、その奥に茫漠(ぼうばく)とした孤独が潜んでいるこの時代。小説の冒頭にも結末にも、高層階から眺めた東京の夜景が舞台として描かれる。そこにはビル街の窓の光が無数に点(とも)っているが、その周りに広がる闇はかぎりなく深い。

読売新聞
2019年8月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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