1964年の東京五輪前夜を舞台にした社会派推理小説

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罪の轍

『罪の轍』

著者
奥田 英朗 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103003533
発売日
2019/08/20
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

執念の捜査と容疑者の孤独が交錯する犯罪小説の最高峰

[レビュアー] 香山二三郎(コラムニスト)

 貧富の格差がまだ歴然としていた一九六〇年代前半の日本。そんな社会の矛盾に気付き、テロにのめり込むエリート大学院生の姿をとらえたのが、奥田英朗の吉川英治文学賞受賞作『オリンピックの身代金』であった。あれから一〇年余、今また五輪前夜の東京を舞台に描いた本書は、その前日譚に当たる。

 日本最北の島、礼文島。宇野寛治は幼時に負った記憶障害が原因で、皆から「莫迦(ばか)」扱いされている二〇歳の青年。漁師の手伝いをする傍ら空き巣をして何とか生計を立てていたが、盗品を質屋で売ろうとして足がつき、逃亡を余儀なくされる。彼の空き巣を知り脅迫していた漁師の赤井にそそのかされ、島からの脱出を図るが、それは罠だった。九死に一生を得た宇野は盗んだ林野庁の作業着に身を包み、東京へ向かう。

 一ヶ月後の一九六三年八月、警視庁捜査一課の落合昌夫は南千住署管内で起きた元時計商の老人殺しの捜査につく。その頃、宇野寛治も浅草に流れ着いていた。暴力団東山会のチンピラ町井明男が面倒を見ていたが、山谷で旅館をやっている彼の姉ミキ子は千住で起きた事件を知って宇野の関与を疑り、明男に警告する。

 明男は気にも留めないが、現場周辺では林野庁の腕章を付けた作業服の男が目撃されていた……。

 最果ての島で最底辺の生活を強いられた青年の悲劇というと、『オリンピックの身代金』の貧富の格差テーマともだぶってくるが、宇野寛治は障碍のせいもあってか至って脳天気。その飄々とした性格が気に入られて案外楽天的な生活を送っている。とはいうものの、空き巣はやめられず、千住の殺しの容疑者としても目をつけられる羽目に。

 だが実は本書のキモはこの事件の顛末ではない。宇野の足取りを追って落合たちが礼文島まで捜査に赴き、いよいよ容疑が固まったところで新たな事件が起きる。浅草署管内で小学一年の幼児が誘拐され、犯人から五〇万円を要求する脅迫電話が入ったのだ。落合たちは誘拐捜査に追われることになるが、果たして千住の殺しとどう関わるのか。幼児の安否を気遣う捜査陣の熱気も高まる。

 六四年の東京五輪は様々な意味で時代の節目となったが、六三年三月に起きた吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件もこの時代を象徴する事件のひとつ。本書はそれをベースに、昭和風俗をふんだんに織り込んだ多層的な警察小説としても、松本清張『砂の器』や水上勉『飢餓海峡』を髣髴させる社会派推理としても読み応えあり!

新潮社 週刊新潮
2019年9月5日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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