タモリがジャズについて語る 村上春樹訳の評伝『スタン・ゲッツ』を読んで

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スタン・ゲッツ:音楽を生きる

『スタン・ゲッツ:音楽を生きる』

著者
ドナルド・L・マギン [著]/村上春樹 [訳]
出版社
新潮社
ISBN
9784105071318
発売日
2019/08/27
価格
3,520円(税込)

もう一度じっくり聴かねば――ドナルド・L・マギン 村上春樹訳 『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』 タモリ

[レビュアー] タモリ(タレント)


タモリさん

 天才的ジャズテナーサックス奏者スタン・ゲッツの克明な伝記。ジャズファンなら必ず聴いているはずだがそれ以外の方なら、ボサノバの名曲「イパネマの娘」でテナーを吹いている人といえば思い出してくれるでしょう。ジョン・コルトレーンやマイルス・デイビスのようにジャズに革命を起こしたミュージシァンではないが、その時代に応じてまたその時の共演者によって美妙に反応し影響を受けながら自分の魂を深めていくジャズマンだ。その才能が見事に開花したのが「イパネマの娘」。ボサノバという当時ブラジルの片隅で生まれたポルトガル語でしか歌われなかった音楽を、全く無名の歌手アストラッド・ジルベルトに英語で歌わせジャズに巧みに取り込んで世界的にヒットさせた。これはジャズ史上最も多く売れたレコードのひとつで一九六五年グラミー賞において投票の結果ビートルズの「抱きしめたい」を抜き最優秀レコードに、またボサノバを創った一人であるジョアン・ジルベルト(アストラッド・ジルベルトの当時の夫)とのアルバムで「イパネマの娘」が収録されている『ゲッツ/ジルベルト』はグラミー賞最優秀アルバム賞に選ばれている。

 ゲッツは一九二七年にフィラデルフィアで生まれ十代半ばですでにプロとして活躍。バラードでの叙情的な美しいフレーズや、その完璧なテクニックで演奏される速いテンポの流れるようなアドリブの中で、ゲッツは一音たりとも無駄な音はないと断言している。完璧主義者だ。今回読みすすめながら読後にはスタン・ゲッツの手持ちのレコードCDを全てじっくりと聴いてみようと楽しみにしていたが、最近物忘れがひどくその頃にはほとんど忘れているだろうからその都度聴くことにした。ついでにその時代に関連したジャズをも聴く。伝記に戻る。又聴く。そうこうしているうちに、新聞でジョアン・ジルベルト他界のニュースを見た。ジルベルトももう一度じっくり聴かなければならない。すると以前はスタン・ゲッツよりで聴いていて感じなかったが当初一部でいわれていたように二人の音楽は違うような気がしてきた。いかん伝記に戻ろう。楽しい時間ばかりが過ぎていく。

 ゲッツの私生活の破綻は凄まじい。そのことも克明に記されている。十代半ばプロとして活動直後には麻薬中毒になっている。最初の結婚では妻も麻薬中毒、そしてアルコール中毒、暴力、自殺未遂、モルヒネ欲しさの薬局武装強盗未遂、ヘロイン中毒で実刑、離婚裁判と全てのものがつきまとう。収入のほとんどが麻薬代に消えていた時期が永く続いた。この酷い私生活の状態でどうやってあの美しい音楽へと昇華していくのか、このことに関して本人自身の言葉もあり興味深い。ジャケットで見るゲッツの恐ろしいほどに空虚で森の中の沼のように美しい瞳にそれを感じる。やはり醜の裏打ちのない美は美ではなく単に綺麗なだけなのか。

 ゲッツがこれら私生活の破綻から解放されるのは一九九一年に六十四歳で亡くなる数年前で、その頃体はすでに癌に侵されており、安寧な日々は短かかった。因みにマイルス・デイビスはゲッツより一年前に生まれ同じ年に亡くなっている。本書には同時に一九二〇年代以降のアメリカのジャズの社会状況も詳細に記録されている。

 美と醜のことを考える時、何となくいつも思い出すことがある。僕が生まれて高校まで過ごした家の裏庭には、高さ三メートルほどの丸い見事なキンモクセイの大木があり祖父の自慢であった。季節になると黄色い小さな花がいっぱい咲いて芳香は家の前の道路まで届き、近所の人達が訪れてしばらく祖父と談笑していくのが常だった。祖父の秘訣は開花の二ヶ月ほど前に、丸く剪定された木の回りに溝を掘り、ありったけの人糞をその中に入れて土をかぶせるのだ。僕と姉はその間むせるような匂いの中を通学することになる。近所の人がいくら誉めても我々はキンモクセイの香りと花の色と人糞の匂いがリンクしてとてもいい香りとは思えなかった。現在住んでいる家と隣家との境には五メートルを越すキンモクセイがあり、秋には黄色の花が地面を染める。この匂いをいい香りと感じるまで二十年はかかった。

 訳者は衆知のとおりだが僕のように中途半端なジャズファンではなく、ジャズのみならずクラッシックにも精通されており、「ジャズといえばゲッツだ」と公言されるほどの大ゲッツファンだ。また僕とはほぼ同年代で、訳者あとがきでは学生時代のことが思い出されて懐かしかった。

 ※もう一度じっくり聴かねば――タモリ 「波」2019年9月号より

新潮社 波
2019年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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