黒澤明と兄・丙午の存在 筆者の「思い」と「直観」に貫かれた大胆な読解

レビュー

1
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

黒澤明の羅生門

『黒澤明の羅生門』

著者
ポール・アンドラ [著]/北村 匡平 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
芸術・生活/演劇・映画
ISBN
9784105071110
発売日
2019/05/29
価格
2,750円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

黒澤明と兄・丙午の存在 筆者の「思い」と「直観」に貫かれた大胆な読解

[レビュアー] 古賀太(日本大学芸術学部教授)

 この本を一読し、まるで鈍器で殴られたような感触を覚えた。そしてその痛みがいつの間にか心地よいものに変わりつつある。私がなんとなく常識と思っていたものをすんなりと覆されたからだ。

 最近は映画をめぐる分厚い本が若手の研究者を中心に続々と出版されている。その多くがこれまで容易にアクセスできなかった資料やデータをもとにした膨大な調査の結果であるのに比べて、この本はむしろ筆者の「思い」や「直観」に貫かれていることにまず驚いた。

 次に、この数十年の映画批評や映画研究は、作り手の思想や生涯を脇に置いておいて、どのような「読解」が可能かを述べるのが常識になっていたが、この本は黒澤明の生涯にわたる出来事や吸収した文学や映画がいかに『羅生門』を始めとする彼の映画に影響を与えたかが、ストレートかつ綿密に述べられていることだ。

 もう一つは、黒澤明とサイレント映画との関係だ。同じように巨匠と並び称される溝口健二や小津安二郎や成瀬巳喜男に比べて、少し後に生まれたためにサイレント映画を撮っていないことが大きな違いと言われてきたが、この本では彼がドイツを中心としたサイレント映画に大きな影響を受けていることを語っている。

 そんな「映画研究者」の常識がどこにも存在しないかのように著者が語るベースとなるのは、まず黒澤明の自伝『蝦蟇の油 自伝のようなもの』である。加えて植草圭之介の『けれど夜明けに―わが青春の黒澤明』を始めとして、当時の新聞記事などから浮かび上がる黒澤明の生涯にわたるいくつもの事実である。

 そのようにして『羅生門』を始めとする黒澤明の映画から第一に見えてくるのは、兄の丙午の存在だ。丙午はロシア文学を始めとして文学に傾倒し、多くの外国映画を見て明に影響を与えた。その後無声映画の人気弁士、須田貞明となり、トーキーが始まって一九三三年に二七歳で自殺する。著者は『羅生門』を始めとする黒澤映画の死の場面に丙午の影を見る。兄ばかりではなく、その前に死んだ姉や兄の死を嘆いた母の姿を見る。

 さらに兄が連れ立って見せてくれた一九二三年の関東大震災と一九四五年の二つの廃墟が黒澤の映画を特徴づけるとする。さらに『羅生門』の原作となる二つの小説を書いた芥川龍之介の作品とその自死が黒澤の作品に影響を与えたという。あるいは漱石の影響について語る。そして兄が弁士として語ったドイツやアメリカやソ連のサイレント映画を追い続ける。

 小津と溝口は、一九五〇年代にはカラー映画を撮っていたが、同じ頃、白黒の『羅生門』を撮っていて、そのほとんどのシーンから、黒澤がサイレント映画の熱狂とその雰囲気を湛えた映画のスタイルをいかに追い求めていたかがわかる。

 半世紀の間に黒澤が体験したような地震、火事、戦争、愛する者の死を特徴とする現代社会における美と生と死についての物語を伝えるため、『羅生門』はサイレント映画のスタイルによる寓意を探っている。

 芥川の作品と悲劇的な死が、黒澤に価値をもたらしたのはそのためである。(中略)芥川が黒澤にとって必要不可欠になったのは、二十世紀前半の日本の芸術と生活における亀裂を芥川が見事に体現してみせたからである。

 著者は文末の参考文献の前に「本書は映画史の本でも完全な伝記でもない」と書く。確かに参考文献はあるが、注はない。だからこそ、黒澤の秘められた魂の行方や彼が生きた時代や文化の状況を残された映画のなかに見出す大づかみで大胆な読解ができたのだろう。もちろんそれ以前に、アメリカ人で日本文学の専門家だからこそ、日本の映画研究者の考えの及ばない考察ができたに違いない。

 二〇世紀後半から定着したいわゆる「テキスト分析」から我々はそろそろ抜け出して、きちんと歴史の文脈を踏まえた研究を始めないといけない。そんな思いに駆られた本だった。訳文も読みやすいので、映画の研究をするすべての人に読んで欲しい。

 全体から著者の熱気が伝わってくる。今度『蝦蟇の油 自伝のようなもの』を読み、『羅生門』を見たら、全く違って見えてくる気がする。

週刊読書人
2019年8月30日号(第3304号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

  • このエントリーをはてなブックマークに追加