『こころ』異聞 書かれなかった遺言 若松英輔著 岩波書店

レビュー

5
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『こころ』異聞

『『こころ』異聞』

著者
若松英輔 [著]
出版社
岩波書店
ISBN
9784000229678
発売日
2019/06/22
価格
2,530円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『こころ』異聞 書かれなかった遺言 若松英輔著 岩波書店

[レビュアー] 宮下志朗(仏文学者・放送大特任教授)

 「先生」と、その親友で自殺した「K」について、「私」が語る、夏目漱石の名作『こころ』。旬の批評家が、その新たな読みに挑んだ。

 最大の特徴は、小説の主人公を先生でも「私」でもなく、「こころ」と呼ばれる得体のしれないものと定め、宗教的・求道的な文学として読み解いたことだ。

 先生に同じ下宿に迎え入れられたKは、先生が心を寄せる「御嬢さん」に恋をするが、先生の「裏切り」によって自殺する――。これが一般的な解釈だろう。

 だが著者はいう。先生は悲しむ者を受け入れる「愛(アガペー)」ゆえに、孤立した者同士としてKを下宿に迎え入れた。そして、「私のやうにたつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決した」という一節を引き、Kの自殺の真因は、御嬢さんを巡る三角関係ではなく、むしろ友愛が否定されたことによる「未来の無化」にあったのだと。議論には、聖書、親鸞の言行録『歎異抄』や鈴木大拙、深層心理学者・河合隼雄までも召喚されるのが、著者ならではだ。

 順序立てて丁寧に追っているから、とっつきやすい。「私」の信仰上の「父」に準(なぞら)えられる先生の自殺については、「明治の精神に殉死する」という有名な言葉は後景に退き、孤立して死んだKと再会・和解しようとしてのことと解される。先生は「Kの歩いた路を、Kと、同じやうに辿(たど)つてゐる」と予覚して、ぞっとするのだ。著者は最後に、先生の遺書を収めた『こころ』という小説が「私」の遺書であって、「読者である私たちは、二つの遺書を読んでいたのではないか」と、作品の思いがけぬ輪郭を提示する。

 自筆原稿を底本として刊行された岩波書店の『漱石全集』を用いた点も特筆される。「書かれたときにこそ『こころ』の真の姿が生きている」ので、「直されたものには見られない躍動」があり、「まったく異なる光景を眼にした」からだ。あらためて全集を精読したい。

読売新聞
2019年9月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

  • このエントリーをはてなブックマークに追加