「感動」って売買できるものなのか?――【自著を語る】『潜在認知の次元』

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潜在認知の次元

『潜在認知の次元』

著者
下條 信輔 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
哲学・宗教・心理学/心理(学)
ISBN
9784641174474
発売日
2019/07/25
価格
1,980円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

「感動」って売買できるものなのか?――【自著を語る】『潜在認知の次元』

[レビュアー] 下條信輔(カリフォルニア工科大学生物学部教授)

「感動を売る」会社が増えている。

 コマーシャルや広告を見ても、企業のウェブサイトを開いても、世は感動だらけだ。感動以外にも「夢」を売る会社、「希望」「癒し」「驚き」「安心」など、いろいろある。こういうものを「情動系企業」と勝手に名付けさせてもらうが、はじめはITや映像プロダクション系で起業した会社に多かった。しかし最近は広告メディアから保険業、健康機器メーカーや製造業など、大企業にまで蔓延している。最初のうちはさすがに恥ずかしいのでおそるおそる、という感じがなんとなくあり、それが最近は大手を振って、という流れだ。

「感動」なんて売買できるのか、という疑問が当然浮かぶ。「できるのか」というのには「本当にやれるのか」という技術的な意味もあるし、「していいのか」という倫理的な意味もある。

 感動は本来、偶発的な出会いに基づくもののはずだ。計画して量産して、売り上げを予測したりできるものなのか。仮にできても、それは本物の「感動」とは違うのではないか。そもそも個人の感情の領域に、(そしてあえていえば)実存的な領域に、臆面もなく土足で踏み込むのか。筆者が古い人間なだけかも知れないが、これが最近までの筆者の率直な思いだった。

 だが最近、自分でも信じられないことに、この考えが変わった。「(感動だって)売買できる」方に傾きつつある。そのきっかけは動物行動学の一連の知見に思い至ったことだ。

情動反応は型にはまって解発される

 動物では、情動行動が特定の刺激によって解発(トリガー)される。たとえばイトヨという魚では、オスの赤い腹のディスプレーが、メスの性行動のトリガー(引き金)となる。オオカミのオス同士はメスを争って死闘を繰り広げるが、一方が横たわって腹を見せる「降参」の仕草をすると、それによって他方の攻撃行動がストップする。

 またある鳥にとって鷹は天敵だ。鷹の剥製の内部にスピーカーを仕掛けて、そのスピーカーから鳥の雛の泣き声を聞かせると、母鳥は(視覚的には)天敵の剥製であるにもかかわらず、それを抱き込んでしまう。つまりこの場合は雛の声が解発刺激になっていて、いったん母性行動のスイッチが入ると、それに対して体が抵抗できない。

 こうした動物における情動行動の解発と、ヒトの情動反応とはむろん異なる。しかしたとえば、火災や地震などにおける群衆のパニック行動や、神経系の進化などを見ると、ヒトの情動行動の起源は、動物の情動解発メカニズムにあると考えてよい。

 これを、今問題にしている「感動の売買?」に当てはめると、どうなるか。特定の情動(たとえば共感、同情、義憤など、ひっくるめて感動)を解き放つトリガー刺激さえ量産できれば、商売のラインに乗せることだってできるのではないか。

 この話はむしろ、こころの顕在/潜在レベルという切り分けでするのが、よりわかりやすいかも知れない。顕在とはもちろん意識できる・自覚できるこころの動きだが、ここでは特に知識の領域と考えて欲しい。他方潜在レベルというのは無意識の・自覚できない領域のことだ。ここではわかりやすく「わかっていても、つい」の領域のこと、と考えておこう。

 たとえばありがちな刑事ドラマで、殺人事件に絡む愛憎劇を観たとする。「しょせんはドラマの中の話」というのは顕在レベルの認知だ。が「そうは言っても、血や涙を見せられるとつい気持ちが動いて、次が見たくなる」というのが、潜在レベルでの情動の働きだ。

「感動を売る商売」なんて、昔からあった?

「最近考えが変わった」と書いたが、これが実はもうひとつの理由だった。つまり、TVドラマや映画、それに小説などを考えれば、「感動を売る」ビジネスなんて、実はとっくの昔から存在している。最近の刑事ドラマのオチは本当にワンパターンで、加害者に同情の余地がおおいにあり、最後は愛の更生物語で終わる。つまり口当たりのいい性善説、これが刑事ものの鉄板レシピーだ(ということがわかってしまうほどに、筆者も性懲りもなく先の読めるストーリーを観ている)。

「感動」に限らず、より広くさまざまな情動のトリガーへと話を広げていいなら、恋愛もの、生きがいもの、スポ根もの、青春もの、すべてそうだ。つまりステロタイプ化した、薄めた擬制の「感動」なら、量産して売れるのではないか。現にそれはTVで毎日見る光景ではないのか。最近の潜在マーケティングや、政治の世界のポピュリズムといった現象は、その延長に過ぎないのではないか。

 ついでに言うと、今「擬制の」感動と言い切ってしまったが、本当はこれさえ危うい。こうした疑似体験と「本物」の情動体験との違いは、濃淡の差だけなのでは、という不安もある。これはもちろん「感動」の定義にもよるのだろうが。

 薄めた、あるいは擬制の情動体験を量産すること、広く情動にトリガーをかけること。むしろそれが、現代マーケティングの「要諦」なのかも知れない。そしてそれはより広く、情報化社会の大きな特徴ともつながっている。そこでは「情報の実体化」が進むからだ。つまり情報がその真偽に関わらず、大衆の情動に訴えかけて実体的効果をもたらす。実体的効果というのは、たとえば株価や世論の変化、タレントや商品の評判、選挙の当落などだ。フェイクニュース、オルタファクト、そしてトランプ大統領のツイッターなどを考えれば、わかりやすいだろう(拙著『ブラックボックス化する現代』、日本評論社)。

 ただここで肝心なのは、「情報の実体化」と表裏の関係で「実体の情報化」も進む点だ。グローバル化に伴って、事実やその直接体験から私たちは隔離され、抽象化された情報だけを与えられる。文字もそうだが、映像もむろんそうだ。身体性から切り離されたヴァーチャルな疑似体験へ、と言い換えることもできる。現代人の身体感覚の希薄化・無痛文明化ということとも連動しているかも知れない。この稿の主眼である「薄めた情動の大量生産(と売買)」もまた、メディアの進化に伴う情報社会のそうした大きな流れの一環として、捉えることができる。

 また同じことを少し違う角度から見ると、世の中の進化がヒトの本性と合致しない。現代社会の変化が早すぎて、現代人はついていけない。そのように言うこともできる。単純にスピードについていけない、という意味もあるし、世の中の仕組み(や因果関係、利潤を生み出す仕組みなど)が「ブラックボックス化」して、私たちにはますます理解できない、そぐわない、ということもある。「薄めた情動の大量生産」という話も 、ヒトの認知の弱点(=潜在意識のレベルで情動反応が自動的に起きてしまうこと)に、潜在マーケティングが付け入り、ますます増幅しているというわけだ。

逆応用科学のアプローチ

 これは筆者の考える「逆応用科学」の、新しい応用問題だ。ふつう「応用科学」というと、基礎研究の成果を実際の世の中に生かす方向の研究を指す。たとえばがん細胞の生物学的研究を、患者の治療や新薬開発に活かす。図式的に書けば「基礎→応用」という方向だ。これに対して「逆応用科学」とは(筆者の勝手な命名だが)、現代社会の現実の問題を咀嚼して実験室に持ち込み、あくまでも基礎科学の方向で研究する方向を指す。言うまでもなく最大のメリットは、はじめから出口(成果やその応用)が見えていることだ(実社会→基礎研究→応用)。多くの場合その対象は、本書で示すように、「社会制度がヒトの(認知の)本性と噛み合わない」現代社会のさまざまな断面へと向かう。

 本書で「逆応用科学」のもっともリアルな例題として扱ったのは、原発だった。日本で原発の過酷事故が起きた要因については、「原発ムラ」がばらまいた「安全神話」が大きかったとも言われている。だがそれ以前に、そもそも原発の安全管理とその経済が、ヒトの認知の本性にそぐわない。詳しくは本書を見てほしいのだが、安全管理の場面での「馴れ」、危機的状況でのパニック行動(まさに情動の解発!)、また原発経済の「今利潤を上げ、ツケは将来に回す」近視眼的な経済論理(時間割引)などが、その具体的な中身だ。

 原発の問題がこのように「社会の制度がヒトの本性にそぐわない」顕著な例だとすると、本当なら心理学者が分析し、社会科学者や政治行政とも協力して処方箋を書くべきだろう。が、現実にはまったく機能していない。これを逆応用科学のアプローチに沿って徹底的に追求してみたらどうなるか。それを試みたのがこの本だ。

 そして本稿ではその先、「薄めた情動体験の売買」を取り上げることで、「逆応用科学」の別のリアルな問題を提起した。そのように受け取ってもらってかまわない。

答えはまだ出ていない

 「感動」に話を戻すが、冒頭で「売買できるのか」という問いには、「できるのか」という技術的な意味のほかに「していいのか」という倫理的な意味もあると書いた。この倫理的な問いが、まだ丸ごと残っている。「しょせん作り事のエンタテイメントとわかっているから、いい」というのは、TVドラマに関しては一応あり得る理屈だ。しかし本当は、それすらも倫理的には疑問の余地がある。

 たとえば、暴力的な映像を子どもは単純に真似をして、より暴力的になることが研究でわかっている。これが商品となるとケース・バイ・ケースだろうが、情動にトリガーをかけて(消費者にはそれと知らせず)それを付加価値として利益に変えていいのか。このように問いを言い換えると、その答えはまだ出ていない。

 宮崎駿監督があるインタビューで、自らの映画制作の動機について、「この狂った世の中、いかに正気を保てるか」と述べておられた。同感だ。逆応用科学としての新しい心理学のアプローチが、少しはその役に立つかも知れない。

※本記事は、朝日新聞社サイト「論座」2019年8月16日掲載記事に加筆修正しています。

有斐閣 書斎の窓
2019年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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