評伝 吉野せい メロスの群れ 小沢美智恵著

レビュー

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

評伝 吉野せい メロスの群れ

『評伝 吉野せい メロスの群れ』

著者
小沢美智恵 [著]
出版社
シングルカット
ISBN
9784938737672
発売日
2019/07/08
価格
1,760円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

評伝 吉野せい メロスの群れ 小沢美智恵著

[レビュアー] 若松英輔(批評家)

◆「何を書かなかったか」に鍵

 ほとんど無名だった吉野せいの『洟(はな)をたらした神』の初版が刊行されたのは一九七四年のことだった。この本の誕生を知る人は多くなかった。だが翌年には大宅壮一ノンフィクション賞と田村俊子賞を受賞し、一挙に世の中に知れ渡ることになる。

 その作品は、世にいう小説でもノンフィクションでもない。ただ、正真正銘の「文学」だった。このとき吉野は七十五歳、二年後には亡くなっている。彼女は晩年になって突然書き始めたのではない。むしろ、若いときからある一群の人びとにはその才能を認められていた。

 二十二歳のときに、詩人であり社会活動家でもあった三野混沌(みのこんとん)と結婚する。家業は農業で、仕事と子育ての両方が彼女の肩にのしかかる。「書く」から離れていくのは必然だった。

 だが、作者が注目するのは、この書かなかった期間に吉野の心のなかで起こっていた出来事であり、再びペンを握るまでの道程である。作家が「何を書いたか」だけでなく、「何を書かなかったか」にこそ人生の秘密を解く鍵がある、と作者はいう。この不朽の文学が生まれるには二つの死があり、それを契機とした死者との交わりがある。

 優れた評伝にはある強い傾向がある。そこで明らかにされるのは、論じる対象の生涯だけではない。作者自身の人生の秘密が浮かび上がってくるのである。

 本書も例外ではなかった。はじめて『洟をたらした神』を手にしたとき、作者は説明できない涙に襲われる。その経験が、この本の生まれる原体験になった。読者は読み進めるうちに、この出来事の真相を知ることになる。

 吉野の筆名の「せい」は「星(せい)」である。その由来をめぐって作者は、「どこ迄(まで)も美しく正しくしたい」という願いのあらわれではなかったかと記している。それは作者の悲願でもあるのだろう。

 作者にとって吉野せいの作品がそうだったように、この稀有(けう)なる評伝もまた、私たち読み手を未知なる自分へと導く力を有している。
(シングルカット社・1728円)

1954年、茨城県生まれ。千葉大卒。作家。著書『遠い空の下の』など。

◆もう1冊 

吉野せい著『洟(はな)をたらした神』(中公文庫)。阿武隈山麓の開墾者として生きた女性の年代記。

中日新聞 東京新聞
2019年9月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

  • このエントリーをはてなブックマークに追加