悲劇の誘拐事件を描く重厚ミステリ
[レビュアー] 西上心太(文芸評論家)
昭和三十八年夏。空き巣常習者の宇野寛治は先輩漁師に騙され、無一文で命からがら小舟で海を渡り、礼文(れぶん)島から北海道本土に上陸する。空き巣をくり返し旅費を得た宇野は、憧れの東京に流れ着く。
荒川区南千住(みなみせんじゅ)で資産家の老人が自宅で殺される。荒らされた形跡があり、侵入盗による居直りが疑われた。捜査本部が設置され、警視庁捜査一課の落合昌夫は所轄署のベテラン大場と組み、周辺への聞き込み捜査を担当する。やがて落合は、北国訛(なま)りの若い男の存在を掴み、事件との関連を疑う。そんなおり、隣の台東区浅草(あさくさ)で幼児誘拐事件が起き、落合たちも捜査に投入されることになった。
第43回吉川英治文学賞受賞作『オリンピックの身代金』以来、実在の誘拐事件をモデルに、再びあの時代を描いた作品だ。
宇野は義父の虐待による後遺症のせいで「莫迦(ばか)」と呼ばれ、罪悪感なく窃盗をくり返してきた。そんな疎外され続けた男が、労働者の町、山谷(さんや)で初めて他人から厚意を受ける。だが皮肉にも、その人とのつながりがきっかけとなり、取り返しのつかない悲劇へと進んでいく。
若手刑事の落合、宇野、そして山谷で母親の簡易旅館を手伝う娘の三つの視点によって、警察捜査小説、犯罪小説、そして市井の人々の群像劇という、物語が多面的に浮かび上がる構成が見事だ。
オリンピックを控え好景気に沸く一方で、埋まらない都市と地方の格差、強者に搾取される弱者、情報を秘匿し、個人技に徹することを良しとするベテラン刑事、そして誘拐事件に不慣れな警察組織の失態などを、余すところなく描きつくす。内容はもとより渡部雄吉(わたべゆうきち)『張り込み日記』(ググってね)の写真を使った表紙や装幀も含め、ベスト級の作品だ。