老いのゆくえ 黒井千次著 中公新書

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老いのゆくえ

『老いのゆくえ』

著者
黒井 千次 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784121025487
発売日
2019/06/19
価格
902円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

老いのゆくえ 黒井千次著 中公新書

[レビュアー] 本郷恵子(中世史学者・東京大教授)

 『老いのかたち』『老いの味わい』に続く「老い」シリーズ最新作、著者87歳である。私も還暦目前の身、遠からず行く道を知るために、謹んで先達の書をひもといた。

 近年の著者の大きな課題は、足もとの不如意にあるらしい。障害物に躓(つまず)くだけでなく、足を下ろす先にあると信じたものがなく、空を踏んでバランスを失う。姿勢を低くしたところから、立ち上れなくなる恐れも大きい。

 著者は新開店のドラッグストアに入ってみる。新しいものに対して健全な好奇心が働いている証拠で、まことに立派だ。だが最下段の商品を見ようとしてしゃがみ込んだら、腰が伸ばせなくなり、そのまま横転してしまった。ここで私は、洗剤を買おうとして訪れた店内で、狭い通路に仰向(あおむ)けになった老人を発見して動顛(どうてん)するという想像をしてしまう。転んでいる老人に同調せず、それを見る側に回るのは、私がまだ若輩者で修行が足りないせいだ。そこに横たわっているのは未来の私か、もしかしたらすでに亡くなった父親かもしれない。ドラッグストアのラビリンス? しかしご安心あれ。著者は、しばし手足をばたつかせた後、なんとか棚につかまって体勢を立て直すことに成功した。

 「老い」のおかげで危ないことやできないことが増えていく。怪我(けが)も多く、しかも治りが悪いので生傷が絶えない。運転免許も返納した。著者は「老い」に出会う都度にさまざまな感覚を味わい、それがちょっと新鮮で感心する。いつのまにか私も身内の老人を心配する気持ちになっている。切なくて、もどかしくて、たまにふり切れて可笑(おか)しい。

 80歳を過ぎたら、朝起きた時に優しい時間の環(わ)の如(ごと)きものに取り巻かれるようになった。環の中では動物の群れがゆっくりと斜面を登っていく。だめですよ、ついていってはいけませんよ。私は次回作のタイトルも考えているんですから。『老いの彼方(かなた)』なんていかがでしょう?

読売新聞
2019年9月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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