都響ソロ・コンサートマスター矢部達哉が深く考えさせられた評論『小林秀雄 最後の音楽会』

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小林秀雄最後の音楽会

『小林秀雄最後の音楽会』

著者
杉本, 圭司, 1968-
出版社
新潮社
ISBN
9784103527916
価格
2,420円(税込)

書籍情報:openBD

「私はあなたに感謝する」――杉本圭司『小林秀雄 最後の音楽会』

[レビュアー] 矢部達哉(東京都交響楽団ソロ・コンサートマスター)

 僕の祖母はクラシック音楽が好きで、中でもヴァイオリンを最も愛していました。簡単に言えば、僕がヴァイオリンを弾いているのは祖母がヴァイオリン好きだったから……という事になります。

 昭和二十六年に、メニューインが戦後最初のヴァイオリニストとして初来日した時も、祖母は祖父にチケットを取ってもらい、聴きに行ったそうです。祖母は何度も、「達哉。メニューヒンがね、戦争が終わってね、日本に来てくれたんだよ。おばあちゃん感激しちゃってね」と話してくれました。僕はその都度、「おばあちゃん。メニューヒンじゃなくて、メニューインだよ」と答えた記憶があります。

 中学二年生の時、そのメニューインの来日公演がある事を知りました。「おばあちゃんがチケットを買ってあげるから、達哉、聴きに行きなさい」と言ってくれて、昭和女子大学人見記念講堂へ聴きに行ったのです。

 僕は当時、ヴァイオリンの事なら何でも知っていると自負していました。その僕から見ると、メニューインの技術に何か足りないものを感じたことも事実です。しかし、それから三十五年以上の年月が経過し、数え切れないほどのヴァイオリニストを聴き、ヴァイオリンの事はまだ少ししか理解していないと気付いた今の自分に問い掛けます。

「あの時のメニューインはどうだった?」と。

 僕はこう答えます。「人生で聴いた全てのリサイタルの中で最高のものだった」と。

 そしてその人生最高のリサイタルが、翌月テレビでも放映され、病床の小林秀雄が生涯最後に聴いた音楽会だったという事実を、杉本圭司さんの『小林秀雄 最後の音楽会』を読んで知りました。小林秀雄は、祖母が聴いた昭和二十六年のコンサートへも足を運び、「私はあなたに感謝する」という感動的なコメントを寄せていたのです。

 初来日の際、リズムが曖昧だった、音程が定まらなかったと、評論家達はメニューインに辛辣な言葉を浴びせたそうです。僕が聴いた公演も、専門的な批評は芳しいものではなかったでしょう。それなのに何故、こうしてメニューインの演奏が最高のものだったと言えるのでしょう?

 杉本さんの著書を読んで、あの時のメニューインから得た感動は、まさに小林秀雄の言う「無私」の心であり、最終的に小林秀雄とメニューインには同じ景色が見えたのだと気付かされました。「批評は原文を熟読し沈黙するに極まる」という最晩年の小林秀雄の言葉は、「演奏は楽譜を熟読し沈黙するに極まる」と言い換えてもよいものです。

 メニューインの演奏は自我を超越し、作曲家達の心の奥の言葉を引き出していました。自分の技術に酔いしれる事も、美音を振りまいて聴衆の耳を魅了する事もありません。ひたすらその作品の真髄の綾を紡いで語る、一人の類い稀な人間の声そのものでした。祖母に「メニューインは何を弾いたの?」と聞くと、「さあ、何だったかな。おばあちゃん覚えてないのよ」という答えでした。何を弾いたか覚えてないのに感激しちゃったのかと当時は腑に落ちない思いでしたが、でも、だから、それがメニューインだと思えるのです。

 杉本さんの文章も、恣意的な主観によって書かれたありきたりな評論ではなく、小林秀雄、メニューイン、モーツァルト、ブラームス……全ての人の心の中に分け入り、その喜びと苦しみを、自身の中に憑依させるような体験を経て初めて獲得される中立性があります。杉本さんはしばしば推察し、読み手に問いかけます。しかし、描かれた人の精神が乗り移ったかのような言葉に強い説得力があり、「そうだったに違いない」と読者は納得します。

 これはもはや評論でも伝記でもなく、本来言葉にするのが難しい音と心の襞が描かれた芸術作品と言って過言ではないと思います。邪心を排除しながら物事の本質に迫り、小林秀雄の辿り着いた境地が純粋な形で表現されます。そして、最終的に杉本さん自身の個が浮かび上がるのです。

 読むのが簡単な文章とは言えないかも知れない。けれど、僕はこの本を読み終えて、明日から「より良い自分」になりたいと思いました。そしてヴァイオリニストとしてだけでなく、音楽を表現する一人の人間として、どのような気持ちで作曲家と向き合うべきか、深く考えさせられました。

 だから、杉本さんにもこう伝えたい。

「私はあなたに感謝する」、と。

 ※「私はあなたに感謝する」――杉本圭司 「波」2019年10月号より

新潮社 波
2019年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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