「名探偵コナン」の脚本も手がけた、ミステリ界のレジェンドも絶賛 いままでにない新しいカタチの「本格ミステリ」

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神とさざなみの密室

『神とさざなみの密室』

著者
市川 憂人 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103528111
発売日
2019/09/19
価格
2,090円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

まったく新しいカタチの本格ミステリ――市川憂人『神とさざなみの密室』

[レビュアー] 辻真先(作家)

 送られてきたゲラを読み始めて、五分後の所感。

「えっ。これ本格なの? ミステリなの? 『ジェリーフィッシュは凍らない』の作者なのか?」

 ゲラを読了して、五分後。

「ああ、本格だ。本格ミステリだ。それもまったく新しいカタチの!」

 新本格ミステリの原点である綾辻行人の『十角館の殺人』で、法学部三回生のエラリイは、こんな調子の主張をしている。

「日本でもてはやされた“社会派”式リアリズム云々はまっぴらなわけさ」「ミステリにふさわしいのはやっぱり名探偵」

 ぼくも彼の意見に賛成するひとりだが、といって政治や世の動きに無関心なわけではない。かつての社会派ミステリでは一部の政財界、高級官僚やエリート社員の登場が大半であったが、ネット時代に入り平均的日本人の誰もが、電波を媒介として対立炎上に躍り込める今、ミステリだけが現実を超越したままですむだろうか。読みはじめてすぐ「これがミステリか」と反応したのは、もしかすると作者の思う壺だったかも。新本格のムーヴメントがいったん否定したリアルを、あえて積極的に取り込んでやろうと、作者の野心が滾ったのかとも考えた。とにかく読もう。先入観ぬきで読んでみよう。そして読んだ結果が「ああ、本格だ」という感慨に着地したのである。

 と片づけては書評として不親切すぎるので、同業者が他をあげつらう失礼をお許し願って、妄言迷評をいま少しつらねてみる。

 抗議デモに参加していた童顔の女子大生三廻部凛。対照的に小太りなオタク渕大輝はヘイトデモで喉を嗄らす。モブシーンの丁寧で的確な描写に臨場感があって、特にヘイトデモで高揚するオタクの心理は新鮮だったが、さてこの違う世界に住むふたりを、どんなミステリに登場させるのか。だんだんと本気で心配になったころ、舞台が一転した。

 眠っていたふたりが覚醒すると、隣り合った部屋で死体と共に監禁されていたことがわかる。ここまで読んだぼくは、象徴的な実験劇かと早計した。ニブい。

 ネタバレが不安で、この後つづけざまに起こるヘビーなドラマはすべて省略するけれど、それでもまだぼくはサスペンスものかと思っていた。まさかあんな“名探偵”が登場するとは思いも寄らなかった。

『ちりめん』という名前以外は性別年齢容貌職業すべて不詳、発するのは人工的な音声だけという怪探偵の出現にはたまげた。この作品がリアルな時代相に直結しているから、可能となったアイデアでもある。

 探偵登場を節目として、本格ものの相貌をあらわにした本作は、ロジックを駆使して事件の核に肉薄する。デモの熱気でスタートした長編が、アームチェアディテクティブに変貌する過程の鮮やかさは、考え抜かれた構成の勝利だ。変転する局面に翻弄されたのは、ふたりの男女よりもむしろぼくであった。小説世界の神として君臨する作者は、気ままにキャラクターをいじり倒すかに見えるが、まるで違う。それどころかこの作者は、主役のふたり凛と大輝を、公平に慎重な手つきで扱いつづけ、ときに同情し共鳴する気配さえある。血なまぐさい物語でありながら、読者は自分の思考に沿って、彼女か彼に感情移入して、それなりに納得できるラストシーンへ導かれるはずだ。

 凛と大輝は、型通りの頭でっかちではなく、うわべだけ恰好つけて中は空っぽの役でもない。演劇の世界でいう“前歴”がよく練られているから、人物造形に厚みがあって、ミステリ的にはその過去を伏線に、後段の謎解決に絡んでくるから芸が細かい。「よく練られている」の評言は、この部分にもかかっていると承知してほしい。

 ひとつつけくわえておこう。

 ぼくの偏愛かも知れないが、名探偵『ちりめん』の設定が大好きだ。長編全体の骨組を俯瞰すれば、プロローグとの対比を含めて画竜点睛に位置づけられている。ぼくはこの人のデビュー作でも、犯人の隠し方の美しさに痺れた記憶がある。ロマンというか稚気というか、本格ミステリに必須(とぼくは思うのです)なスパイスを、この作者はまぎれもなく持っている。

 本格ミステリに未開拓であった分野に鍬をいれ、確かな一歩を踏みしめた労作として、大きく評価したい。

 ※まったく新しいカタチの本格ミステリ――辻 真先 「波」2019年10月号より

新潮社 波
2019年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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