編集者の夢の話から生まれた小説とは? 作家・吉田修一が創作秘話を語る

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【特集 吉田修一の20年】吉田修一、新潮文庫の自作を語る【後篇】

[文] 新潮社

『愛に乱暴』(2013年)

初瀬桃子は結婚八年目の子供のいない主婦。夫・真守の両親が住む母屋の離れで暮らし、週に一度、手作り石鹸教室の講師をしている。そんな折、義父の宗一郎が脳梗塞で倒れた。うろたえる義母・照子の手伝いに忙しくなった桃子に、一本の無言電話がかかる。受話器の向こうで微かに響く声、あれは夫では? 平穏だった桃子の日常は揺らぎ始め、日々綴られる日記にも浮気相手の影がしのびよる。

――これはいくつかの地方紙に連載された長篇小説。舞台は現代の東京です。

吉田 小説の中には明記していませんが、イメージとしてはかつて住んだことのある南荻窪あたりです。杉並区の高級住宅街なんですけど、僕には不便な土地でした。荻窪駅から歩いて二十五分かかるんです。その頃のことですが、駅近く、環八のあたりにコンビニが一軒あって、そこからの二十分はコンビニがない。二十三区で徒歩二十分圏内にコンビニがない街って珍しいと思うんですよ。それに、まだ若く、昼から自宅にずっといる僕は周囲から不審な目で見られていました。そんな住宅街をこの舞台となる土地のモデルとして選んだわけです。

 実はこれ、新潮社の裕子さんって編集者から聞いたヘンな夢の話がもとになっています。

――夢の中で日記を読んでいると……みたいな話でしたね。

吉田 そうそう。あの話が発想のスタートだったから、最初は「裕子の夢」って仮タイトルでした。

――『さよなら渓谷』は『悪人』より作者と登場人物の距離が離れている気がしていたので、さきほどの〈他人の物語〉という言葉は腑に落ちたのですが、『愛に乱暴』はまた違った距離感ですね。

吉田 『愛に乱暴』の作者と登場人物の距離感は、『さよなら渓谷』でも『悪人』でもなく、この後の『犯罪小説集』(16年)に近いかもしれません。僕は主人公の桃子に何ひとつ共感していないんですよ。彼女が次に何をするのかもわからない。言ってみたら、彼女のすぐ後ろで透明人間になって見ている、という感覚で書いていました。自分が物語を作っていくというより、桃子さんが思いもよらないことをするので、それを驚きながら書きとめていく。

――桃子に共感も同情もしてない?

吉田 全然してない。ただ彼女のすぐ後ろに立って、「何この夫婦!」「何この姑!」「え、そんなことするの?」って呆れている感じ。

――そう言えば、まさか桃子がチェーンソーを買うとは思わなかった、って刊行の時に仰ってましたね。

吉田 小説に出てくる店は、僕のイメージの中ではなぜか烏山の西友なんですね。自転車がはみ出すくらい沢山停めてある中を、桃子さんが入って行く。僕は、彼女は当然そのまま一階の奥へ行くと思っていたら、二階への階段をのぼっていった。あそこの二階はホームセンターになってるんですよ。で、「えーっ」と思いながらキーボードを打つ。

――何ですか、それ(笑)。

吉田 変でしょう? でも、本当にそういうふうになっちゃったんです。今後どうすればいいんだ、作家として(笑)。

――それはパソコンの前に座っている時に起きている出来事ですか?

吉田 書きながらの時もあるし、夜眠る前にベッドでぼんやり考えながら、「ああ、二階へ行った、行っちゃった」みたいになる時もあるし。夢の中でその小説の内部へ入っている、みたいな感じなのかな。なんか、このへんから僕の小説の書き方は少しおかしくなってきましたね。

――時代小説の北原亞以子さんが似たことを仰ってました。『慶次郎縁側日記』というシリーズ物で、何人もの登場人物が出て来ますが、「彼らが勝手に動いていくのをただ私は記録しているんです。へえー、この人物がこうなったかって、書きながら驚いていますよ」。

吉田 あ、近いです。

――池波正太郎さんも、同じ主旨のことをエッセイに書かれてますね。ある作中人物がここで死ぬことを私は知らなかった、みたいに。すると、吉田さんは桃子がチェーンソーを買うなんてことは決めてなかったんですね。

吉田 もちろん、ストーリーはほぼほぼ考えていません(キッパリ)。

――先日最終回を迎えた『湖の女たち』の「週刊新潮」連載を脇から見ていると、そのお言葉は嘘ではないように思えます(笑)。

吉田 土地、人物の設定、語りの仕掛けみたいなのはある程度考えますが、ストーリーの方は書きながら考えていきます。その上、物語の中へ自分もポーンと入っちゃった方が楽になってきたんですよね。『愛に乱暴』から、そのやり方がわかり始めてきた気がします。

 長篇小説を連載するのって、一年なり一年半なりの間、生活しながらずっと桃子さんなら桃子さんが隣にいるわけですよ。経験はありませんが、会社へ毎日通勤するみたいなものですかね。違う?(笑) 寝ていたいのに、本を読みたいのに、映画観たいのに、でもそんなこと言っていられないから、会社へ行くわけですよね。そんな心境で、毎日毎日、桃子さんに会うわけです。

――別に共感もしてないヒロインに(笑)。『国宝』でもそうでしたか?

吉田 あれも朝日新聞に連載していた一年半、あの物語の中へどっぷり浸かっていました。何度も見たのは、舞台裏でパッと歌舞伎の台本を渡されて、全然覚えられないのに時間がきて、舞台へ出なきゃいけない、という夢(笑)。寝ても覚めても『国宝』の世界にいました。あれも視点が動いていく小説ですが、その都度その都度の視点人物の中へ入っていましたね。そこで彼が体験することを書き留めていく。今の僕はそんな書き方になっています。

 振り返ってみると、以前は小説の世界をもっとコントロールできていたと思うんですよ。台湾が舞台の長篇小説『路(ルウ)』(12年)の時だって、自分はちゃんと物語の外にいました。『愛に乱暴』からは、自分がもう存在していない感じ。流れの中へ飛び込んで、そこで夢のように過ごして、やがて小説ができる――そんなふうに言ってしまうと、書くのが楽みたいに聞こえて損ですかね(笑)。

――それは書く快感とか無我の境地とか、そういう話ではない?

吉田 ちょっと違うような気がします。でも、そういう書き方じゃないと、『愛に乱暴』や『国宝』や『湖の女たち』みたいな小説は書けなかった、という確信はあるんですよ。

 ※【特集 吉田修一の20年】吉田修一、新潮文庫の自作を語る【後篇】――「波」2019年10月号より

新潮社 波
2019年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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