『流浪の月』
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単に“好き”とは違う 繊細に描かれた主人公の感情
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
主人公の更紗には、文字通り消せない過去がある。九歳のとき誘拐事件の被害者になり、犯人の文は彼女の目の前で逮捕された。その現場を誰かが撮影して、インターネットに動画を上げたのだ。何もひどいことはされていなかったのに、人々は更紗に〈『傷物にされたかわいそうな女の子』というスタンプ〉を押す。一度ネットに拡散された個人情報は、入れ墨のように削除することが難しい。デジタルタトゥーに苦しみながら大人になった更紗は、やがて文と再会するが……。
誘拐された少女と誘拐した青年が十五年の時を経て再びめぐり会う。しかも青年――三十四歳になった文は、昔とほとんど変わらない。職業はカフェのマスターで、手足は長く、〈甘くて冷たい。半透明の磨りガラスのような声〉をしている。大人の女性が好きじゃないという危うさはありつつ、見た目に不潔感はなく優しい。いかにも家庭に事情を抱えている孤独な少女が攫ってほしいと夢見るような、現実味の薄いヒーローに思える。ふたりが恋に落ちたとしたら、ありきたりで幼稚な話になっただろう。しかし文と更紗は恋人でも友達でも敵味方でもない。本書は一対一の人間関係に新たな可能性を切り開いているのだ。
更紗は文が好きだけれども、彼に対する気持ちは〈恋とか愛とか、そういう名前をつけられる場所にはない。どうしてもなにかに喩えるならば、聖域、という言葉が一番近い〉と考えている。同時に、文のそばにいることを強く望む。生きるために彼が必要だからだ。更紗の感情は恋愛とどう違うのか。文の何が他の人ととりかえがきかないのか。繊細に描いているところがいい。
あるトラブルをきっかけにふたりは追い詰められていく。断片的な情報をもとに人間をわかりやすい型にはめこむ世間に、更紗が最後通牒をつきつける三〇二ページは、読んでいて霧が晴れるような心地がした。