【文庫双六】常識は用をなさないシベリアの酷寒――北上次郎

レビュー

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常識は用をなさないシベリアの酷寒

[レビュアー] 北上次郎(文芸評論家)

【前回の文庫双六】戦前のシベリア鉄道“女文豪”ひとり旅!――梯久美子
https://www.bookbang.jp/review/article/586060

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 シベリアというと、1985年にTBSが放送したドキュメント「シベリア大紀行」を思い出す。これは大黒屋光太夫の足跡を追うもので、まことに壮大な企画であった。この旅の記録は、TBS特別取材班がまとめた『シベリア大紀行』、この旅のレポーターをつとめた椎名誠の『シベリア追跡』『零下59度の旅』(こちらは写文集)という本が出ているが、すべて絶版。現在読むことが出来るのは、この旅にロシア語通訳として同行した米原万里の『マイナス50℃の世界』という本だけだ。

 山本皓一の写真がたくさん収録されていて、それらを見るだけで酷寒のシベリアがリアルに浮かんでくる。おやっと思った写真は、川なのか湖なのか、凍結した一面の氷を切って作られた即席のプールに男が入っている姿をとらえた一枚だ。酷寒のシベリアで、しかも野外で水に入るとは何事かと思ったが、その写真には次のキャプションが付けられている。

「外はマイナス30度でも40度でも水は0度だから相対的に水に入ったほうが暖かい、と感じるのだ。ただし慣れていないと危険」

 なるほどという箇所である。ヤクーツク市内の家がどれも傾いているのは、永久凍土地帯に建てられているからで、地表から1・5メートルあたりまでの層が溶けたり凍ったりを繰り返すと、建物は土台からねじれて曲がるのだという。だから水道や下水や暖房用のパイプは埋めることが出来ず、地上80センチあたりに剥き出しに配管されている、というのもシベリアならではだ。

 ちなみにマイナス50度以下になると機体の水分が氷結してエンジンの動きが鈍くなるので飛行機が飛べず、何日も同じ町で足止めをくらったという経験が本文中にある。人間や動物の吐く息などが凍って出来る居住霧(ひどいときは4メートル先も見えない)が出ると空港閉鎖もされるというから、シベリアの旅は本当に大変である。

新潮社 週刊新潮
2019年10月3日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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