浮世離れしていると思われがちな前衛的書家の格闘の軌跡

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未知の世界へと誘ってくれる前衛的表現者の格闘の軌跡

[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)

 石川九楊が長年にわたり、キーボードで入力・変換する日本語の書き方を断固否定していることや、横書きが日本語を壊すと主張していることは、当欄の読者諸兄の多くはご存じかと思う。しかし書家としての石川九楊の作品を鑑賞したことのある人はずっと少ないだろう。王羲之や空海の書が出る展覧会にはいつでも人が殺到するが、どう見ればいいのかとまどうような前衛的な書はつねにあまり人気がない。これは現代美術にも現代詩にも共通したなやみだが、みんな「わかりやすい」もののほうが好きなのである。

 しかし、「わかりやすい」というのは、受け手の側がその価値をあらかじめ知っているということだから、「わかりやすい」ものはすでにこの世の中の秩序に組み込まれ、飼い馴らされたものでしかない。価値や意味などまるっきりわからない未知の危険のなかに身を投じなければ、縮小再生産のループにはまり、先細りの道を歩くだけである。芸術でもスポーツでも企業経営でもおなじことだと思う。

 人はいかにして、既知の安心という心休まる世界から、未知の不安という宙づり状態へと跳びこんでいくのか。それを知るうえでこの自伝は重要である。福井という、大陸文明に向かって開かれた玄関口である土地に生まれ育ったこと。谷川雁や吉本隆明など現代詩人の言葉と出会い、それを表現するための「書法」をさがしつづけたこと。すでにある詩句をそのまま書くのではなく、いったん解体して再構築するような手法に手ごたえを感じたこと。それらを表現の土台として、筆と紙との接点という小さな場所のなかの大冒険へと踏み出していった人生のあゆみを、初めてつぶさに知る。

 もちろん図版は豊富で、しかも圧倒的である。浮世離れしていると思われがちな前衛的表現者が、時代と正面から、誠実に、格闘していることがよくわかる。

新潮社 週刊新潮
2019年10月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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