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恐ろしくも魅惑的なそれぞれの“魔界”
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
「文月の使者」の〈指は、あげましたよ〉、「桔梗闇」の〈み、みィと、地蔵が鳴いた〉など、どの話も一行目を読んだ瞬間に強烈な謎が立ち上がり、恐ろしくも魅惑的な魔界へ連れ去られる。皆川博子『ゆめこ縮緬』は、大正から昭和初期の日本が舞台の八編を収める幻想小説集だ。
表題作の書き出しは〈泣かずに寝よとは、母が子を寝かせつける言葉であろう〉。語り手の「わたし」は、母が口ずさんでいた『あした』という童謡を思い出している。〈お母さま、泣かずにねんねいたしましょ〉と子供が母を寝かしつけている不思議な内容の歌だ。「わたし」はそのとき初めて母の歌を聞いたという。なぜか。少女が見た家族の秘密が語られていく。
なんといっても引き込まれるのは「わたし」が学校に上がるまで暮らしていた中洲の伯父の家のエピソードだ。蛇を詰めたガラス瓶が並ぶ暗い店、嘴の紅く爛れた小鳥が出てくる詩集、白い縮緬の振袖を着せられた西洋人形……。体面を重んじる母方の親戚には蔑まれるけれども、「わたし」にとっては好きな本があって可愛がってくれる人がいた忘れられない場所だ。実家に戻り、生臭い大人の事情を知っても「わたし」の魂は書物を通じて記憶のなかの中洲にあり続ける。
「わたし」が書物について〈すべて不可思議な霧のなかの幻想世界であり、そこでこそ、楽に呼吸ができた〉と語るくだりがある。「わたし」は最後に、息苦しい日常を捨て、その幻想世界で生きることを選ぶ。グロテスクかつきらびやかで、何より自由な世界を求める人のための物語だ。
言葉の力だけで魔界を創り出した名作といえば、泉鏡花『草迷宮』(岩波文庫)。亡き母の歌っていた手毬唄を追い求める青年が、化物屋敷に迷い込む。妖怪に護られた美女が〈手毬をついて見せましょう〉と言って座敷に〈手毬の錦〉を出現させるシーンが美しい。内田百間『百鬼園百物語』(平凡社ライブラリー)は百間の小説、随筆、日記を百物語形式で編みなおすことによって、日常の延長線上にある魔界へ誘ってくれる。