大岡昇平の時代…湯川豊著

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大岡昇平の時代

『大岡昇平の時代』

著者
湯川 豊 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784309028248
発売日
2019/09/04
価格
2,530円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

大岡昇平の時代…湯川豊著

[レビュアー] 尾崎真理子(読売新聞本社編集委員)

 大岡昇平が逝ってまもなく昭和が終わった。いつかこの作家の全体を知ろうと思っているうち、平成も終わった。その怠慢を本著に衝(つ)かれた。〈昭和の作家が身を賭して残したものを、現在の日本文学が受け継いでいるか〉。1960年代から文芸出版の一線に在(あ)った著者は、並々ならぬ覚悟でこの評論に臨んでいる。

 身を賭して大岡が残したものとは、まず30代半ばで出征した大戦末期、フィリピンで米軍の捕虜となった体験に基づく3作の戦争物だが、52年の『俘虜(ふりょ)記』はひたすら正確さを追求した実録。次の『野火(のび)』で戦場の限界状況は神の存在を問う心理小説となり、史料の傍証を尽くした歴史小説『レイテ戦記』(71年完結)に至ってようやく、戦争そのものを問い、死者の鎮魂が作家の中でかなったのだと、著者は説く。

 大岡が生き延びたのは初めてではなかった。24歳で死んだ富永太郎の詩に旧制成城高校時代から魅了され、やがて富永の友人、中原中也と親しくなる。が、中也も30歳で開戦前に死去。そして戦後、中也の恋人を奪った小林秀雄と共に華やかな場所に押し出されるわけだが、生涯、「無垢(むく)」であることに格別の価値をおき、大岡自身も「少年」を裡(うち)に宿したまま、富永と中也について晩年まで書き続けた。〈問が真剣であればあるほど、答はない〉からそうしたのだと著者はいう。遺(のこ)されたすぐれた詩編を引き、戦前の青春の暗い輝きを伝える第五章には圧倒された。

 『武蔵野夫人』等の恋愛小説、『事件』に代表される裁判小説、文壇話も豊富な日録『成城だより』まで、旺盛に執筆した。それもこの大家にしかできなかった、昭和の長い午後の過ごし方だったろう。

 著者は担当者として無数の場面を共有したはずだが、秘話の類いは一切ない。ある日の編集会議で、大岡と中村光夫が小林秀雄に敬意を表しつつ知恵を出すのを〈いい眺めだなあと思って見ていた〉と記されるのみ。その態度にも敬服する。

 ◇ゆかわ・ゆたか=1938年、新潟生まれ。元文芸春秋取締役。著書に『須賀敦子を読む』(読売文学賞)など。

読売新聞
2019年10月6日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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