【文庫双六】スタイリッシュなあの映画の原作――梯久美子

レビュー

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スタイリッシュなあの映画の原作

[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)

【前回の文庫双六】グレン・グールドが好きな刑事と犯罪者――川本三郎
https://www.bookbang.jp/review/article/589030

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『羊たちの沈黙』の「羊」とは、二人の主人公―連続殺人犯にして天才的な精神科医のハンニバル・レクターと、FBIの訓練生クラリス・スターリング―の会話の中に出てくる、クラリスが子供の頃に預けられていた農場の羊である。

 彼女は殺される子羊たちがあげた悲鳴を忘れることができない。そのトラウマを、カウンセリングさながらにレクターが引き出すスリリングな場面は、この小説の読みどころのひとつだ。

「羊」がタイトルに使われた名作といえば、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』がある。こちらの羊は、電気仕掛けで動く人工の羊である。

 舞台は放射能に汚染された第三次世界大戦後の地球。生きた動物は貴重な存在で高値がついており、本物のペットを飼うことは憧れと羨望の対象になっている。

 主人公のリックは火星から逃亡してきたアンドロイドを狩って賞金を稼いでいる。電気羊しか持っていない彼が危険を冒して狩りを続けるのは、どうしても本物の動物を飼いたいからだ。

 言わずと知れた『ブレードランナー』の原作である。だが映画には、羊のことは出てこない。もうひとつ映画で割愛されているのが「マーサー教」で、教祖が行う苦行を「共感ボックス」という装置を通して大勢の人と一緒に体験し、その苦痛によって一体感と生の実感を得る、という宗教である。

 電気羊もマーサー教も、キッチュで物悲しく、それでいて妙にリアルな、つまりはいかにもディックっぽい設定。それらを華麗にスルーすることで、あのスタイリッシュな映画は成立している。

 映画の冒頭では、舞台が2019年であることが示される。つまり今年である。ペットへの情熱といい、共感に価値を置く風潮といい(「共感ボックス」はさしずめSNSか)、現在の世界を見回せば、どうも映画よりも原作小説に近い方向に進んでいる気がする。

新潮社 週刊新潮
2019年10月24日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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