[本の森 歴史・時代]『影がゆく』稲葉博一
[レビュアー] 田口幹人(書店人)
ミステリやSF小説好きで、知らない方はいないだろう海外文学翻訳出版の老舗・早川書房が、時代小説レーベルを立ち上げると聞いた時は驚いた。様々な感情を抱かせてくれる上質なミステリが、早川書房の出版物の最大の魅力である。その経験の蓄積が、どの様に時代小説に反映されるのだろうかと、ワクワクしながら創刊ラインナップである三冊を読み終えた。
そのうちの一冊、稲葉博一『影がゆく』(早川書房)は、要人護送ものの戦国冒険小説である。
近江の国・浅井氏の本城である小谷城に、比叡山延暦寺との戦いにおいて圧倒的な勝利をおさめ、一山を焼失させた織田信長が迫っていた。小谷城での戦いを前に、浅井勢に加勢するため越前から参陣していた朝倉義景は、自国へと撤退を始める。織田信長が、小谷城に留守番程度の兵を配置し、朝倉義景を討つべく越前方面へと兵を進めた一瞬が、物語の始まりだ。
その好機を逃すまいと、浅井政元は、家臣に隠密の恃み事を申し渡した。一刻を争う中、弓削家政を中心に、精鋭の武士たちと伊賀甲賀忍者による遂行部隊が結成され、越後までの険しい旅が始まるのだった。
隠密の恃み事とは、落城寸前の浅井家に残る唯一の希望である浅井政元の娘・月姫を小谷城から逃し、越後上杉家まで送り届けるという任務だった。はたして一行は、織田信長の息がかからない場所まで、月姫を守り抜き送り届けることができるのだろうか。
険しい山谷を進むその道中、幾度となく死闘を繰り広げる者たちの中心となっているのは、伊賀甲賀忍者や真田忍衆、蜂須賀党、藤林衆、さらに服部党という忍びの者たちだった。
忍者が登場する物語は多く存在するが、本書に描かれている忍びの者たちは、何かが違うのだ。忍者といえば、特殊な技術を用いて諜報活動に暗躍した者たちで、厳しい鍛錬を重ね、己を押し殺し冷静沈着に命を遂行する姿は、人間離れしていて、実在する者としてイメージができないことが多かった。
しかし、本書で描かれている忍びの者たちは、人間味を感じさせてくれるのだ。少年忍者・犬丸の出生の秘密が明かされる場面をピークに、それぞれの人物の背景となる地域との結びつきと、複雑に絡み合う過去を描くことで、土着としての忍びが持つ独特の匂いが立ち込めてゆく。命の危険も顧みず、名を遺すことはなかった忍者を実在の者として、実感することができた物語だった。
はたして一行は、無事に任務を遂行することができるのだろうか。結末は、手に汗を握りながら読んで確かめていただきたい。
翻訳ものの冒険小説をかつて夢中になって読んで感じた人生哲学に触れた気がした。なるほど、そういうことか。