某…川上弘美著 幻冬舎

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某

『某』

著者
川上弘美 [著]
出版社
幻冬舎
ISBN
9784344035041
発売日
2019/09/12
価格
1,760円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

某…川上弘美著 幻冬舎

[レビュアー] 岸本佐知子(翻訳家)

 語り手である「私」は、ないないづくしだ。名前もない、記憶もない、性別さえ不明のまま、ある日この世にふらりと出現した。そんな、人間に似ているけれど人間ではない「私」は、さまざまな人間に“擬態”し、人間社会の中で暮らしながら、何者かになろうとする。ある時は性欲旺盛な男子高生。ある時はキャバ嬢。地味な事務員。どこにでもいそうな女子高生。カナダの英語教師。中年の建設作業員……。

 私は読んでいてドキドキした。自分は宇宙人なんじゃないか、それがバレやしないかとびくつきながら過ごした幼稚園時代を思い出したからだ。でも、考えてみたら人がその人になる過程というのは、多かれ少なかれこういうものなのかもしれない。誰しも集団の中に放り込まれ、周囲の反応を見ながら、手さぐりで「自分」を確立していくものなのかもしれない。

 なるほど、各章ごとに「私」がいろいろな人格をまとって学びを得ていくオムニバス形式か……と思いきや、「私」のような「誰でもない者」たちが他にも複数いることが判明するあたりから、物語は意外な方向に広がりはじめる。変化はするが成長も老いもせず、死ぬこともない彼らは、希少な者どうし肩寄せあい、人間という生物をつぶさに観察する。なぜ愛する? なぜ家族を欲しがる? なぜ他者のために自分を犠牲にできる? なぜ死ぬのが怖い? 彼らが人間に対していだく疑問は、そっくりそのまま読み手である私たちに向かってくる。そう、この本を読むということは、「私」と一緒に生まれなおし、人間とは何か、自分とは何者なのかを一から問いなおす旅に似ている。

 終盤近く、「私」が数々の人格を経て、ついに人間が避けがたく持つある一つの特質を獲得する過程は悲しく美しく、胸を締めつけられる。読み終えたとき、時間と共に朽ちていくこの体の中で生きている自分という存在が、途方もない奇跡のように感じられる、そんな物語だ。

 ◇かわかみ・ひろみ=1958年、東京生まれ。『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、『水声』で読売文学賞。

読売新聞
2019年10月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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