抽斗のなかの海…朝吹真理子著 中央公論新社

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抽斗のなかの海

『抽斗のなかの海』

著者
朝吹 真理子 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784120052002
発売日
2019/07/09
価格
1,870円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

抽斗のなかの海…朝吹真理子著 中央公論新社

[レビュアー] 村田沙耶香(作家)

 ちょうど今、読み返している本に、<人は生きているとただそれだけで、知らないうちに思った以上に「生きている」。>という一節がある。この一節を読んで真っ先に思い出したのが、『抽斗(ひきだし)のなかの海』だった。

 これは著者にとって初めてのエッセイ集だ。ほとんど小説のように感じられる短文の数々が、私には宝物に思え、この本のことはテーブルに放ったりできず、いつもそっと持ち上げる。

 著者は、「古井由吉の小説は、書かれていないことばかり記憶に残る」と書く。このエッセイのことでもあるじゃないか、と奇妙な気持ちだった。余白から感じられる「世界」があまりに美しく、どこまでが実際に文字に書かれていてどこからが勝手に想起した幻影なのか、わからなくなってきてしまう。不思議に思ってページを捲(めく)り、また新しい幻影の中に飲み込まれる。

 「放心」で想像された川上も川下もなくひたすら流れてゆくだけの川の物語を、遠い昔に愛した気がする。「ほんものの惑星がほしい」と願った女の子の横で、惑星を取りに行く人影が過(よぎ)ったのを確かに見た気がする。「あーぺっぺん」と名付けられた猫と一緒に暮らす誰かの物語を、体のどこかが受け取った気がする。

 美しいもの、あたたかいもの、微笑(ほほえ)ましいもの、たくさんのエピソードが綴(つづ)られているが、どんなささやかなことが書かれていようと、どのページもどうしようもなく「広い」。ページの外にある物語をいつの間にか受け取ってしまうのだ。文字を書くという行為は、意識していようといまいと、書かれている以上のことが描かれ、存在しているということなのだと、これほど思い知らされたことはなかった。

 帯に小さく、「すこしふしぎな日常」とある。すこしふしぎなこの本は、少し幻影が変化したり、記憶にない物語を私に与えたりしながら、永遠に大切な一冊として、存在し続けるのだと思う。

読売新聞
2019年11月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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