「“笑い”はあなどれない」柏木哲夫(著)『ユーモアを生きる』

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「“笑い”はあなどれない」柏木哲夫(著)『ユーモアを生きる』

[レビュアー] 釈徹宗(相愛大学教授、如来寺住職)

 本書は2部構成になっている。第1部が『作業療法ジャーナル』で連載されたエッセイ、第2部は笑いやユーモアを主題とした対談である。

「人間理解」が一生のテーマである、と明言する著者。“生きるうえで避けることができない困難な状況とどう向き合うのか”に注視している姿勢が伝わってくる。そこで浮上するのが、笑いやユーモアという営みである。本書で繰り返し出てくるのが、「ユーモアとは『にもかかわらず笑うこと』である」というアルフォンス・デーケン(上智大学名誉教授)の言葉である。困難な状況「にもかかわらず」笑う、厳しくつらい事態「にもかかわらず」笑う、著者の関心はそのようなユーモアの機能にある。実際、いくつもの事例を挙げて「にもかかわらず笑う人たち」が紹介されている。お正月を自宅で迎えることになったある末期の男性は、「がん細胞 正月ぐらいは 寝て暮らせ」という川柳をつくる。これなどは、読んでいて思わず胸が痛くなる状況である。しかし、胸が痛くなると同時に、死がもたらすある種の豊かさを感じる。

 本書で紹介されている“コーピングユーモア”(ユーモアをコープする。コープとは対応・対処)というユーモアの応用概念が興味深い。「たとえば、非常につらい状況に置かれたときに、正面から向き合うととてもつらくてどうにもならなくなる。それをユーモアのセンスで『うまく体をかわす』、『対応する、対処する』ということが、コーピングユーモアである」(本書36ページ)。まさに筆者の思いと適合する概念である。そういえば、V. E. フランクルの『夜と霧』に、「収容所生活を皮肉ったギャグ。すべてはなにかを忘れるためだ。実際、こうしたことは有用なのだ」という記述がある。強制収容所においてのユーモアが、人々の生きる力を持続させたことを、フランクルは目の当たりにしたのである。

 あるいは、ユーモアとQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の関係への言及も注目すべきポイントであろう。「ユーモアセンスをもっている人は、憂うつにもなりにくいし、不安にもなりにくいというわけである。(…)ユーモアに対する評価の度合いが上がれば、死の不安が低くなるともいえる。さらに、『自尊感情』の高さとユーモアセンスの高さが正の相関関係にあるという研究もある」(本書42ページ)。このような知見がリラックスした筆致で綴られていく。病いや死という人生上の難問に、心身のバランスを重視しながら向き合うような本である。

 また、対談の中に出てくる「排笑」という造語には感服した。人間は笑うようになっている生物であると規定して、排尿や排便のように「排笑」されるというのである。新生児微笑などは、本来、人間が排笑する存在であることの証左だというのだ。

 確かにわれわれは、笑うという行為がもたらす心身の影響について、経験的に知っている。笑うための祭礼があるのも、そのためであろう。神へと笑いを奉納するのは、地域の人々がよりよい日常を生きるためである。とにかく“笑い”はあなどれない。

 個人的には落語への言及もあったのがうれしい。交流のあった故・笑福亭松喬(6代目)は、末期の状況にあっても高座に上がり、腕をまくって点滴の針を客席に見せ、「病院抜け出してきましてん」と言い放って笑いを生み出していた。今から思えば、ひどい不良患者であった。しかし、落語は“人間のダメなところ”を非難するのではなく、冷ややかに見るのでもなく、一緒に温かく笑う。筆者は「ユーモアに欠かせないものは?」の問いに、「思いやりです」と即答しているが、このあたりの感性が肝要なのである。筆者が川柳を創作するのも、同じような方向性だと思う。

 実は、現在、ひそかに「宗教と笑い」をについての論考をまとめたいと考えている。そのため、いろいろ資料を渉猟しているのである。そんな中、本書に出会えたことは幸いであった。

作業療法ジャーナル
53巻13号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

三輪書店

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