檀ふみ×藤原正彦×阿川佐和子 座談会〈前篇〉/文士の子ども被害者の会 Season3

対談・鼎談

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檀一雄長女・檀ふみ×新田次郎次男・藤原正彦×阿川弘之長女・阿川佐和子 創刊600号記念座談会 文士の子ども被害者の会〈前篇〉

[文] 新潮社


左から阿川弘之さんの長女・阿川佐和子さん、新田次郎さんの次男・藤原正彦さん、檀一雄さんの長女・檀ふみさん

アガワが同類〈文士の子どもたち〉の哀歓を聞く大好評シリーズ。しかし今回はややオモムキが異なって……。

 ***

阿川佐和子(以下:阿川) ひそかに「文士の子ども被害者の会」というものが結成されておりまして、かつていた文士という種族の子どもたちがいかにヒドイ目に遭って育ったか、「うちはもっとヒドイ」とか言い合って互いに慰め合おう、あるいは貴重な記録として残しておこうという趣旨の会でございます。
 今日は新田次郎さんのご子息の藤原正彦さん、大変著名な数学者であり、またベストセラーになった本も何冊も出しておられます。もうお一方、檀ふみさんは女優であり、檀一雄さんのご長女ですね。やはり本も書かれます。この三人の顔合わせで喋るのは初めてですね。

檀ふみ(以下:檀) 私、新田次郎さんにインタビューの仕事でお目にかかったことありますが、素敵な紳士でいらっしゃいました。

阿川 みんな、外では紳士なのよ。

藤原正彦(以下:藤原) 私は阿川弘之さんには何度かお会いしました。瞬間湯沸かし器なんて仇名があるけど、実に英国紳士的な紳士で。

阿川 「外ヅラ仮面」とうちでは呼んでおりました(会場笑)。父が新田次郎さんとどれほどお付合いがあったか存じ上げませんが、藤原正彦さんのことは、書かれるご本も含めて大好きでした。

藤原 阿川さんとか檀さん、遠藤周作さん、吉行淳之介さんあたりは、みんな大正生まれでしょ?

檀 檀一雄は、実は明治四十五年生まれでございます。

藤原 では、そこは勘違いしていたことになるんだけど、父はよく「大正生まれはダメだ」と見下していました。もちろんユーモアでね。

阿川 するとお父様は明治?

藤原 檀一雄さんと同じ明治四十五年です。でも、明治生まれを威張るわりには、生まれたのが六月六日。明治天皇が亡くなったのは一カ月余り後の七月三十日だから、ほとんど明治生まれとは言えないんです。

檀 でも、明治生まれと大正生まれはまったく違うんでしょうね。

藤原 父はそう言うんですがね。大正をバカにしていました。

阿川 どういう理由でバカにしてらしたんですか?

藤原 要するに、今あるもの――僕と父が話していた当時だから昭和後半のことですよ――、つまり男女の同棲とか性の乱れとか、日本のよき伝統を忘れ、欧米文化にかぶれ、根性なしになったのは大正デモクラシーの時代からだと。

阿川 明治の人間は厳格でしっかりしていたぞ、と。

藤原 そうです。「だから大正の人間は軟弱で頼りない」と。もっとも、私の尊敬する昭和元年生まれの心理学者は、いつも大正生まれの人に「昭和っ子だからなあってバカにされていた」、と言っていました。私は昭和十八年生まれですから、戦後生まれをことごとくバカにしております(会場笑)。で、うちの息子は昭和の末に生まれたから、平成生まれをとことんバカにしてます。

阿川 古代より、若者はダメと言われ続ける運命にあるのです。

藤原 でも、若い人をバカにすることは重要ですよね。むしろ、若い人に迎合する年寄りが一番恥ずかしいです。わが家は阿川家と同じで武士道の家系で……。

阿川 うち、違いますよ。祖父はもともと山口県の農家の生まれですし、祖母も大阪の商家の娘です。

藤原 うちは武士道と言いながら、家の中は母が完全に仕切っていて、父は母に頭が上がりませんでした。
 というのは、満洲からの引き揚げの時――一九四五年八月九日に、いきなりソ連が日ソ不可侵条約を破って満洲へ攻めてきましたね。その翌十日の深夜に、私たちは今の長春の駅に集まれと言われて、そこから日本へ向けての逃避行が始まるわけです。父母と子どもが三人、兄は五歳、私が二歳になったばかり、妹は生まれて一カ月。ところが、父は駅まで私達を送って来て、突然「俺は一緒に日本へ帰れない」と言い出して、一人で勤め先の気象台――満洲では観象台と言ってました――へ戻っちゃったんです。

阿川 部下たちを守る責任がおありになったから……。

藤原 父は満洲気象台の高層気象課長で、部下が何人もいたんですよ。

檀 そこは武士道ですよね。

藤原 しかも、気象って軍事機密なんです。記録や機器は全て焼いたり壊したりしないといけない。父だって家族と逃げたいのは山々だけれど、やるべき仕事があって、部下がみんな残っている時に、自分だけ家族と日本へ逃げ帰ったら最後、そんな卑劣な男は一生日陰で暮らさなければいけない。そんな思いで残ったんですね。
 母は父に泣いて懇願したんです。幼い子どもを三人抱えて、大混乱の中を無事に引き揚げる自信がない、と。でも、父は気象台へ帰ってしまった。それから一年以上かけて、われわれは死ぬ思いをしながら帰国した。その後にソ連の収容所に入れられていた父も日本へ戻ってこられましたが、母にはずっと頭が上がらなかったんです。

阿川 その詳細は、みなさんご存じと思いますけれども、お母さまの藤原ていさんが『流れる星は生きている』という名著に記しておられます。私は高校時代に読んで泣いたね。正彦さんたち子どもは一つ間違えたら中国残留孤児か、体力が弱って死ぬか、殺されたかしたという中で、みんなを無事に連れ帰ったという母親の逞しさたるや!

藤原 似たケースの子どもたちの大半は死にました。だから高校生の頃、母と喧嘩したら、「おまえなんて北朝鮮の山の中に置いてくればよかった」(会場笑)。

阿川 お父さまもお母さまに似たようなことを言われたんでしょ? 正彦さんのエッセイによると、お父さまがお母さまの機嫌を損ねると、「誰のおかげで、子どもが三人共無事だったと思ってるの?」って。

藤原 その繰り返しでしたね。

阿川 そう言われると、お父さまは何も言えなくなって、どこが武士道精神なのかわかんないですけど、黙って二階の書斎へ逃げちゃう(会場笑)。

藤原 やはり母にすれば、妻と子ども三人を見捨てたと思っていたのでしょう。自分の死は覚悟して、どうにか子どもたちだけは助けてやりたいという一心でしたでしょうね。実際、多くの日本人が生きて帰れなかったわけですから。

阿川 お母さまは、それをずっと恨みに思っていらして……。

藤原 恨みに思っていたかどうかは知りませんが、夫婦喧嘩の時には必ず最後にそれを持ち出す。水戸黄門の印籠です。父はうなだれて二階に逃げていく(会場笑)。

阿川 どんな感じで仰るんですか?

藤原 迫力ある声で、「あなたは家族を見捨てたじゃないか!」。

阿川・檀 おおっ。

檀 でも、お母さまに言わせるままにしていらしたお父さまも立派ですよ。

阿川 息子としては、どちらの気持ちもわかる?

藤原 父はやっぱり武士道精神ですからね。私が父の立場でも、部下が残っているのに、自分だけその人たち――彼らの家族も含めて――を置いて、妻子と日本へ逃げ帰ることはできなかったと思う。ただ私にとっては、父が満洲に残ってくれてよかったんです。母の代わりに父が子ども三人を連れて引き揚げの逃避行をしたら、百パーセント全滅したでしょうね。

檀 それはなぜ?

藤原 父は武士道精神ですから、例えば朝鮮人の畑から芋を盗んでくるとか、絶対にできない。卑怯なことをするくらいなら死んだ方がましという人ですから。母の方は縄文時代からの百姓ですから、自分の子どもを生かすためなら何でもやる。

檀 女は、そういうところ逞しいですよ。特に子どもを持ったらね。

藤原 まさにその通りで、世界中の子どもが死んでも、自分の子どもだけは生かすという迫力で連れ帰ってきてくれた。

阿川 夫婦喧嘩の時以外のお父さまはどんな方でしたか? 父と息子の関係はいかがでした?

藤原 父はあまりガミガミ細かいこと言わない。ただ、武士道に反すること、例えば弱い者いじめをするなどというのは以ての外で、万死に値することと言っていました。もっと言うと、父は弱い者がいじめられているのを私が見て見ぬふりをすることも許さなかった。「この卑怯者!」と。どんな手を用いてでも、絶対に助けろと。

阿川 喧嘩をしてもいいわけですね?

藤原 ええ。私は子どもの頃喧嘩が強くて、弱い者がいじめられていたら直ちに吹っ飛んでって、いじめてるやつらを殴る蹴る、ひどい暴行を加えて、家へ帰ると報告するんです。そのたびに、父から褒められました。特に貧しい子を救った時は「よくやった」と絶賛されました。ほかのことで褒められた記憶がほとんどないから、よく覚えています。

阿川 藤原さんのエッセイによると、イギリスにいらした時、ご子息がいじめられたと聞いて、「復讐してこい」と言ったという。

藤原 あの時、女房は「すぐ先生に言いなさい」と息子に言ったんですね。私は「それは告げ口だ」と許さなかった。当時の私自身が、数学という戦場でケンブリッジの天才たちと命がけで戦っていた。そんな時に息子が学校で泣かされて帰ってきた。もちろん許せません。そこで「イギリス野郎を叩きのめせ」と言って、殴り方を伝授しました。

阿川 殴り方?

藤原 藤原家伝来の「水車戦法」というのがあるんです。

檀 何ですか、それは。

藤原 (実演しながら)こうやってひたすら高速で両腕をぐるぐる回しながら敵に向って突進していく(会場笑)。

檀 ただポカポカ、ポカポカ?

藤原 そうです。小学校低学年だと、それでみんな逃げちゃいます。しかも、ただ両腕を振り回すだけじゃなくて、「ワーッ」と叫んだりしながら、ものすごい形相で突き進んでいく。

阿川 それ、藤原家伝来なんですか?(会場笑)

藤原 父から私が教わったんですね。私が神田の小川小学校へ入学すると、同級生たちはみんな地元の幼稚園から上がってきたんです。わが家だけ幼稚園へ行くお金がなかったから、小学校から入った。するともう親分子分が全部決まっていたんですね。私は絶対そういうのに入らないから、みんなに遊んでもらえなくて、休み時間には教壇の机の下に隠れて過ごす毎日でした。気象台の官舎では私はガキ大将なのに、小学校ではそんな屈辱的な立場になった。それで二学期になってすぐ、トップの親分へ殴りかかったんです。その時に父が教えてくれたのが藤原家伝来の水車戦法。

檀 お父さまに相談されたんですね?

藤原 ええ。小学校では、何より多勢に無勢だった。他クラスの連中に取り囲まれこづかれたりもした。父に相談すると、「大勢に囲まれた時に、みんなを相手にしたら絶対に負ける。一番強いやつだけをめがけて、水車戦法で突進しろ」とアドバイスされた。それで一番腕っ節の強い魚屋の息子、これがワダってやつなんです。

阿川 まだご健在?

藤原 全然知らない(会場笑)。そのワダが腰を低くして喧嘩の格好でやってきたから、私は水車戦法で、ものすごい形相で迫って行ったら、ワダはすぐ降参しました。土下座して「すみませんでした!」。まだ殴る前ですよ。

檀 ワダ君は殴られる前に、形相に負けたんだ。

藤原 それで私が親分になったんですね。あの頃、軍人将棋というのが流行っていまして、一番上の駒が「大将」。それに倣って、みんなの位をつけていきました。生意気なやつは、もう人間じゃなくて「地雷」とか「タンク」とか。

檀 それ、いじめじゃないですか。

阿川 まあ、少くとも武士道精神じゃないわね。

藤原 そう?(会場笑)

新潮社 波
2019年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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