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無責任な“鈍感さ”を突き付ける 鮮烈な“原発小説”たち
[レビュアー] 倉本さおり(書評家、ライター)
私たちが放射能に対して抱く恐怖の根源。それは「得体の知れなさ」にある。つまり原発事故とは、その得体の知れなさをひとりひとりが引き受けないまま、他の誰かの生活の上に平然と押しつけた結果でもあるのだ。その、とほうもなく鈍感な私たちの罪深さを鮮烈な形で突きつけてくれる点に、原発をモチーフにした小説の本懐があるのだろう。
古川日出男『あるいは修羅の十億年』の舞台は2026年の日本。十五年前に起きた大震災が原因で二つの原子炉が爆発し、あいだに挟まれ汚染された一帯は世間で「島」と呼ばれ隔離されている。これだけでも充分に差別的な状況だが、作者の想像力はさらにその先を見通す。例えば2020年の東京五輪開催に向け、大規模な再開発が進んだ鷺ノ宮エリアは、メディアからこぞって持て囃されるオシャレな街へと変貌する。ところが五輪開催の直前に「島」の土砂が大量に運び込まれるというテロが起きたことにより、あっというまに見棄てられ、今では完全なスラム街と化している。他にも、経済復興の要として国家レベルで再開発の進む競馬場では「東京ステロイドS」「勝島モンスター特別」(!)なる過激な見世物レースが行われていたり。どこまでも空虚かつグロテスクな東京のビジョンは、世界を無責任に消費していく私たち自身の似姿だ。
今から三十年以上前に書かれた井上光晴の『西海原子力発電所』(講談社文芸文庫)は、「原爆文学」と「原発文学」を結びつけたメルクマール的な作品。表題作は閉鎖的な地域社会で起きた焼死事件の謎を軸に、原発をめぐる利害の対立を群像劇のスタイルで描きだす。真実はどこまでも藪の中、ゆえに私たちが先送りした「得体の知れなさ」がなまなましい存在感で横たわる。
ネヴィル・シュート『渚にて』(創元SF文庫、佐藤龍雄=訳)が描くのは、放射能汚染のカウントダウンが進行する世界で残された日々をまっとうする人びとの姿だ。活劇によるカタルシスを排し、淡々と現実と向き合っていく―その静謐な時間こそ私たちが取り戻すべきものなのだろう。