十四編の物語が教えてくれる “中年以降”の生き方
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
自分がこれまで辿ってきた道をふりかえり、それをこれから先に延びる道と天秤にかけて釣り合いを測ってみる―中年とはこのときからはじまるのではないか。
健康診断で毎年引っかかる項目が複数出てきたり、同級生が突然死したり、そんなことが自分の人生の来し方行く末を天秤にかけるきっかけになる。この短編集に登場する主人公たちは、ひとしなみにこうした時期を迎え、あるいは既に行く末の方を短く感じている。
しかし、短さを自覚すればこそ、重みはかえって増すのではないか。とはいえ、取りこぼしたものを今になって慌てて拾い集めるような生き急ぎはもはやしない。むしろ、人生などじたばたせずともどうにかやりすごせるものだ、という寂しくも澄んだ見通しをもって、起きる出来事の一つ一つを大事に生きようとする。
真面目だけがあなたのいいところよ、と言う妻と連れ添って二十年してはじめて若い他の女と関係する「遠音」、逆に同僚との関係にあらぬ疑いをかけられる表題作。大事件ではない。どこにでもいつでも転がっているような、ただし誰しもが経験することでもない小さな出来事。だからこそ、ここに登場する人々は、われわれ自身の姿というべきかもしれない。「もうさしたる欲もない。健康が一番だと言いながら、実際は、体にいいことはなにもやっていない」カプセル男、すなわち終電の尽きるまで酒を飲み、郊外の自宅に戻るよりはとカプセルホテルに夜な夜な泊まる男たち。予備軍までを含めれば、日本に何万人の「カプセル男」がいるのだろう。
そんな孤独で退屈な毎日に、寄り添ってくれる人間や、いろどりを与えてくれる出来事が現れるかどうかは運の問題でしかない。ただ、その運命に巻き込まれることなく、ときに涙を、ときに笑いをこらえつつ、起きることのすべてを愛おしんで受け止める、それが正しい中年以降の生き方なのだ、と教えてくれる。