『星空病院 キッチン花』
書籍情報:openBD
『星空病院 キッチン花』発売記念 渡辺淳子特別エッセイ!
[レビュアー] 渡辺淳子(作家)
最近、美味しくなったといえど、なかなか患者が食べたいものが食べられないのが、病院食。病気を治すためだとはいえ、外出もままならない患者からすれば、唯一の楽しみといえる食事は、元気になるための重要なファクター。看護師という経歴を持つ渡辺淳子さんが『星空病院キッチン花』を思いついた創作秘話です。
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オーダーメイドの食堂じゃないと、ダメじゃない!
誰しも「あのとき、ああすればよかった」という、後悔のひとつやふたつがあるだろう。「やらない後悔より、やって後悔をする方がいい」とよく言われるが、長年看護師として働いてきた私には、とりわけ悔やんでいることがある。
社会に出て間もない、まだ二十代前半のころ。私は横浜の病院で、Aさんという三十代の女性患者を受け持った。Aさんの乳ガンは全身に転移しており、歩くこともままならなかった。だが胃腸には問題がなかったので、彼女は三度の食事を楽しみにしていた。
「コロッケが食べたーい。ソースのいっぱい浸みたヤツ」
いつもニコニコしていたAさんだったが、そのときは、ちょっと悲しげに言った。なぜならAさんには、差し入れをしてくれる家族や友人がいなかったからだ。
その月の病院食の献立表を見てみたが、当座のメニューにコロッケの文字はなかった。「来月はおかずにコロッケが出ますように」と、ふたりで願っているうちに、Aさんは意識をなくし、やがて天国へと召されてしまった。当時の私は、仕方なかったと肩をおとしただけだったが、年を追い、やがて後悔するようになった。
どうして私は、あのとき夜勤の前に惣菜屋に立ち寄り、コロッケを買って、こっそりAさんに持って行かなかったのか。真っ黒になるほど、ソースのかかったコロッケを、Aさんは食べたがっていたのに。揚げたてのコロッケを、箸で割ったときに上がる湯気に、そばかすのうかんだ頬を緩めただろうAさんを想像するたび、胸が痛んだ。
だが待てよ。揚げたては、ちょっと難しい。食堂まで出かけて、注文すれば別だけど。でも、あの病院の食堂のメニューには、コロッケなんかなかった。となると、リクエストしたものを作ってくれる、オーダーメイドの食堂じゃないと、ダメじゃないか。
そうした思いから生まれたのが、「星空病院キッチン花」である。
この食堂は院内の片隅、花咲く温室の隣で、こっそりと営まれている。客の好みで献立が決まるので、注文されてから、買い出しに走ることもしばしばだ。
シェフは自称、「手術と料理の腕前が取り柄」の名誉院長だ。少々頑固で、外科医としてのプライドも高いが、思うところあり、現在は一線から退き、料理にのみ心血を注いでいる。
手術を恐れる患者に振り回される、ダメな新人看護師。過去の浮気を認知症の妻に責められ、頭を抱える老夫。ガンで闘病中の父親と仲直りするため帰国した、国際駆け落ち婚をした女子。引きこもり中に、脳梗塞で半身マヒとなった中年男。
勝手回診中に客引きしたこれらの人々に、キッチン花で食事を取らせ、彼らの人生のつまずきを、シェフは快方に向かわせるのだ。
お代は、ひとり五百円以上なら、いくらでも結構。神出鬼没の陽気なおばちゃんに支えられ、気弱なアシスタントの助けを借りて作られる、ジャンルを問わない料理の数々。ひとりでも多くの人に堪能してもらえたら、Aさんの弔いになる気がしている。
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渡辺淳子(わたなべ・じゅんこ)
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務しながら「父と私と結婚と」で第3回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『東京近江寮食堂』『東京近江寮食堂宮崎編家族のレシピ』『結婚家族』などがある。