『政治的動物』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
圧倒的な手駒の豊富さ
[レビュアー] 大澤真幸(社会学者)
「政治的動物」とは、アリストテレスが『政治学』で与えた人間の定義である。本書は、この概念にインスパイアされながら日本の現代小説を論じた文芸批評である。ただし「政治的」と「動物」の接合において働いている力の方向が、本書とアリストテレスでは逆になっている。アリストテレスは、「動物」を「政治的(ポリス的)」という述語で限定することで人間の本質を規定しようとした。本書は逆に、「動物性」の方から人間を見ることで、「政治的なるもの」を脱構築しようとしている。
「政治的なもの」とは、本書では、共同体の内と外との境界で生ずること、つまり共同体の(さまざまな)他者への関係を意味している。「動物」は、この他者たちの形象のことである。だから、本書で論じられる小説の多くで、実際に動物が登場するとはいえ、つまりペットとか野良猫とか「自伝を書くホッキョクグマ」とか「クマである神様」とか「犬になった女」とかが登場するとはいえ、本書で言及されるすべての小説で動物が現れているわけではない。本書のスタンスは、「動物性」をヘーゲルの「悪無限」の概念と結びけている点によく現れている。統一的な全体性をもつ「真無限」と違い、悪無限は、どこまでいっても「すべて」にはならないという否定性を特徴とする。したがって悪無限と関係づけられている動物は、「何ものとしても規定できない」というアイデンティティの未定性を最後まで返上することはない。
本書では、主として、一九七九年(津島佑子の『光の領分』が出た年)から二〇一七年(村上春樹『騎士団長殺し』松浦寿輝『名誉と恍惚』多和田葉子『百年の散歩』金井美恵子『カストロの尻』等の年)の間の作品が論じられているが、この区分にはそれほど強い必然性はない。いずれにせよ、読み進めていくとそんなことはどうでもよいという気分になる。各章の文芸批評的な考察がめちゃめちゃ楽しいからである。特に驚くべきは、著者の繰り出してくる手駒の豊富さである。
例えば、多和田葉子の『雪の練習生』と大江健三郎の『宙返り』を主に論じた「獣たちの帝国」と題された章。絶対的他者(動物)の無条件の歓待は悪無限の構成をもつという結論に至るまでの間に、人類学者エドゥアルド・コーン等のパースペクティヴズムが引用され、ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』の「脱領土化」論が参照され、ヌスバウムの「ケイパビリティ・アプローチ」やナンシー・フレイザー等の「アイデンティティの政治」が検討され、田川建三のパウロ解釈までが言及される。他の章でも、カント、ヘーゲル、デリダ、ジジェク、マラブー等々が次々と繰り出される。学会誌に載るような学術論文と比べたときの文芸批評の醍醐味は、実際、こうした思考の自由度、参照される知的領域の広さにあるのだが、本書はこの点で傑出している。
文学の領域へと閉じることのない文芸批評、政治や思想一般にとってインパクトのある含意をもった文芸批評を物する書き手が久しぶりに現れたことを喜びたい。