斎藤真理子が読み解く、谷崎由依渾身の長編作品『遠の眠りの』。“女たちという難民”の意味とは?

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遠の眠りの

『遠の眠りの』

著者
谷崎 由依 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087716870
発売日
2019/12/05
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

「女たちという難民」が舟を出す

[レビュアー] 斎藤真理子(翻訳家・ライター)

 じんけん、と言ったら多くの人が思い浮かべるのはやはり「人権」だろう。「人絹」と言ってどれほど通じるか。

 舞台は大正時代末期の福井。絹織物産業が斜陽化して機屋(はたや)がどんどんつぶれていき、入れ替わりに活況を呈したのが人絹=人造絹糸、レーヨンの生産だった。その人絹工場で働く絵子(えこ)という少女が、物語の中心に立っている。

 小さいときから、自分でも理由はわからないけれど本を読むことが大好きだった絵子。家族の中で一人だけ、思ったことをがまんせずに言い、父親と衝突して家を出た。彼女は人絹工場を経て、福井初の百貨店「えびす屋」に勤めることになる。しかも、「お話係」として雇われて。

『遠の眠りの』に描かれる主たる時代は、昭和モダンといわれた時期だ。そのころ福井に百貨店が主宰する少女歌劇団が存在したことを、私は本書で初めて知った。絵子の仕事とは、この歌劇団の台本を書くことだったのだ。

 お話係の絵子、布を織るまい子、労働運動のリーダーになる朝子。この小説を彩る女性たちは、福井から動かない。東京や大阪など大都市へ行ってしまったりしない。といって故郷に腰を据えっぱなしというのでもなく、生まれた村と、少し離れた都会を行きつ戻りつしながら人生が進む。二つとない、それぞれの土地の近代化を生きる切実な姿がすがすがしい筆致で描かれる。

 そして、シベリア経由で福井にやってきたポーランド系の兄弟によって、福井という土地の立ち位置を改めて認識させられる。日本海に面したこれらの土地は、ユーラシア大陸に向かって開かれた港だったのだと。

 史実に基づく魅力的な設定がひしめきあい、そのせいか後半で話がやや小走りになるような印象も受けるが、その中から立ち上る「女たちという難民」という言葉が印象的だ。人絹は「偽の絹」と言われたが、絹織物が欧米に輸出されたのとは逆に、中国やインド、東南アジアへと売られていったという。絹を購えない女性たちにとって、それは実に頼もしい繊維だったかもしれないのだ。それを織った女たちと、着た女たちと。日本にもアジアにも、まだ描かれていない女性たちの肖像がきっとたくさんあるはずだ。谷崎由依はそんな歴史の襞の一つひとつに手を差し入れ、それらに風を当てていく。

 絵子は二回お話を書いたあと、その仕事を手放す。お話のすばらしさと怖さの両方を知る人なのだ。だが何年も経って日本が大きな変化を迎えたとき、再び「また、お話を作ろう」と彼女は言う。

 タイトルの「遠の眠りの」とは、「長き夜の、遠の眠りのみな目覚め、波乗り舟の、音のよきかな」という回文の一部だ。終わりと始まりがつながっている回文と同じように、絵子はまた、お話のもとへ戻ってくる。この先の絵子の歩みも読みたいと願うのは、私一人ではないだろう。谷崎由依の大きな到達点であり、忘れがたい女性たちの面影を乗せて日本史の海に漕ぎ出した、頼もしい「波乗り舟」だ。

河出書房新社 文藝
2020年春季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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