来日したポール・マッカートニーを逮捕 池上彰が目の当たりにした「マトリ」の現場

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マトリ : 厚労省麻薬取締官

『マトリ : 厚労省麻薬取締官』

著者
瀬戸, 晴海, 1956-
出版社
新潮社
ISBN
9784106108471
価格
902円(税込)

書籍情報:openBD

「マトリ」が赤裸々に明かす薬物犯罪史

[レビュアー] 池上彰(ジャーナリスト)


1980年1月、ウイングス初の日本公演ツアーのため来日したが大麻不法所持で逮捕。強制送還となり成田空港から出国するポール・マッカートニー(Wikimedia Commonsより)

 芸能人の薬物犯罪のニュースでよく出てくる名前が「マトリ」。麻薬取締官の略称で、正式名称は厚生労働省麻薬取締部職員です。名称に麻薬と入っていますが、麻薬に限らず覚醒剤や大麻など薬物犯罪全体を取り締まります。

 警察や海上保安庁なども薬物犯罪を摘発しますが、「マトリ」は薬物専門に特化した捜査機関なのです。

 一般にはなかなか知ることのできない、この「マトリ」の実態を赤裸々に描いているのが『マトリ 厚労省麻薬取締官』(新潮新書)。著者は元ベテラン捜査官で、関東信越厚生局麻薬取締部部長だった瀬戸晴海氏です。

「マトリには、約300名の麻薬取締官が存在している。麻薬取締官は薬物犯罪捜査と医療麻薬等のコントロールに特化した専門家で、半数以上を薬剤師が占めている。おそらく世界最小の捜査機関である」(本書)

 薬物犯罪捜査においてマトリが他の捜査機関と異なるのは、いわゆる「おとり捜査」が認められていることです。薬物犯罪を取り締まる根拠となる「麻薬及び向精神薬取締法」の第58条に「麻薬に関する犯罪の捜査にあたり、厚生労働大臣の許可を受けて、この法律の規定にかかわらず、何人からも麻薬を譲り受けることができる」と記されているからです。

 おとり捜査では、麻薬中毒者を装ったり、業者に扮したりと、犯罪組織に深く関わりますから、危険と隣り合わせです。身分は厚生労働省職員ですが、警察官と同じように容疑者を逮捕できますし、拳銃を携帯することもできます。

 私がマトリと関わったのは、1980年1月のこと。元ビートルズのポール・マッカートニーがコンサートのために来日した際、大麻を所持していたため成田空港で逮捕され、取り調べを受けることになったのです。

 当時の私はNHK社会部で渋谷警察署を拠点に警視庁第三方面本部管内の取材を受け持っていました。第三方面本部は渋谷、世田谷、目黒の3つの区の計9つの警察署を管轄しています。いわゆる「サツ回り」です。この日、「ポール・マッカートニーが逮捕されたぞ。どこに連行されるか、心当たりがあるか」と社会部デスクから問い合わせの電話があったのです。私が思い出したのが、目黒警察署の近くにあった麻薬取締官事務所(当時)。「そこに連行されるはずです。カメラマンを寄越してください」と連絡。結果、ポールが麻薬取締官事務所に連行される映像はNHKの特ダネになりました。取り調べを終えたポールが連行されたのは警視庁の本部庁舎。ポールがマトリ二人に腕を掴まれて事務所から出るシーンを撮影した報道写真の中には、私が映り込んでいるものもあります。あの頃は若かった。

 いわゆる薬物犯罪の恐ろしさを私が痛感したのは、1981年6月に起きた「深川通り魔事件」です。この事件を本書ではこのように記しています。

「覚醒剤中毒の男が東京・深川の路上で主婦らを包丁で次々と刺し、4人が死亡、2人が怪我を負った。男は主婦らを刺した後、通行中の女性を中華料理店に連れ込み、2階に立て籠った。女性が逃走したのを機に警察官が突入し、包丁を振り回して暴れる男を取り押さえ逮捕している」

 このとき私は警視庁捜査一課担当記者になっていました。事件発生と同時に現場に急行。夜7時のNHKニュースで逮捕の瞬間を中継しました。

 この男は覚醒剤中毒患者特有のフラッシュバック現象(幻覚や妄想に襲われる精神状態)で犯行に及んだことがわかりました。事件後、私は事件発生までの彼の過去を取材して歩き、覚醒剤中毒の恐ろしさを知りました。

 本書は、著者の体験談を軸に、戦後の日本の薬物犯罪の歴史をたどります。戦後広まったヒロポン中毒。ヒロポンとは覚醒剤のこと。戦時中の日本軍はパイロットの眠気防止などのために使用し、それが一般に広がりました。

 その後、ヒロポンはシャブと呼ばれるようになり、暴力団の資金源に。90年代にはイラン人の密売グループが跋扈。やがて「危険ドラッグ」の取り締まりも始まりますが、犯罪も“進化”して、ネット密売の取り締まりには手を焼くことになります。

 著者の瀬戸氏による薬物犯罪との戦いは、戦後日本の裏面史でもあるのです。

 ※「マトリ」が赤裸々に明かす薬物犯罪史――池上彰 「波」2020年2月号より

新潮社 波
2020年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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