靴ひも…ドメニコ・スタルノーネ著 新潮クレスト・ブックス

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靴ひも

『靴ひも』

著者
ドメニコ・スタルノーネ [著]/関口英子 [訳]
出版社
新潮社
ISBN
9784105901615
発売日
2019/11/27
価格
2,090円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

靴ひも…ドメニコ・スタルノーネ著 新潮クレスト・ブックス

[レビュアー] 村田沙耶香(作家)

 友達から「家庭」の悩みを聞いていたとき、急に、「もう解決した、幸せだ」と言われて、何も言えないことがある。私はそこへ行けず、本当のことは何もわからない、と切なく思う。

 大切な人を時に著しく傷つける「家庭」というものについて、私は、どこかで、洞窟のようなイメージを持っていた。中に入ってみないと、何も見えない。けれど中に入ると、洞窟の空気に全身を覆われ、真っ暗で何も見えない。

 この作品は、その「家庭」というものが孕(はら)んでいる恐ろしさがいろいろなカメラから描かれた作品だ。「普通の、幸福な家庭」であろう一家に潜んでいる恐ろしいものが、ページを捲(めく)るたびに膨れ上がっていく。家庭とは洞窟どころではなくブラックホールではないかと呆然(ぼうぜん)とする。

 「第一の書」は妻の視点で、愛人を作って急に家を出て行った夫へ向けた手紙が綴(つづ)られている。「第二の書」は夫の視点だ。時間が飛び、第一の書から何十年も経(た)った夫婦の姿が回想を交えながら描かれる。私はこの「第二の書」で、夫側の事情と共に、「家庭」というものの持つあたたかさを無理矢理押し付けられるのかなあ、と少し怖かったが、その悪い予想とは真逆の方向へと、恐ろしさは膨らんでいった。「第三の書」は40代半ばになった娘の視点で、兄と彼女にとって「家庭」がどんな場所であったか思い知らされる。私は衝撃を受けながらも、なぜか嬉(うれ)しかった。「普通の家庭」の、この化け物性こそ、読みたかったものなのだ、と感じた。

 この小説は、「家庭」をはみ出して、そこを生きる平凡な人間の中に潜んでいる恐ろしさを、鮮やかに描き出している。私はそのことにとても救われた。「家庭は本当は絶対にあたたかい」という小説は幼少期の私にとっては呪いの書で、何度も傷ついてきた。けれどここには本物の、しかも今まで言語化されていなかったような、平凡な恐怖がある。それはきっと読者にとって、とても恐ろしい救いになるのだ。関口英子訳。

 <注>原題は「Lacci」です。

読売新聞
2020年1月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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