気鋭の情報学者ドミニク・チェンが考えるデジタル表現の未来

レビュー

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未来をつくる言葉

『未来をつくる言葉』

著者
ドミニク・チェン [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103531111
発売日
2020/01/22
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

風景とともにある知

[レビュアー] 伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)


ドミニク・チェンさん(撮影・望月孝)

 クリエイティブ・コモンズ・ジャパンを設立した気鋭の情報学者ドミニク・チェンさんが哲学書『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』を刊行。美学者の伊藤亜紗さんが書評を寄せた。

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 子供が生まれたら、死ぬのが怖くなくなった。そう口にする人に何人も出会ったことがある。筆者自身もそうだ。出産の翌日に母子同室が許され、生まれたばかりの我が子を自分の体のとなりに横たえた。その瞬間、脳裏に浮かんだのは自分自身の葬式の鮮明なイメージだった。そして不思議なことに、底知れぬ安堵感に包まれたのである。

 子供の誕生によって自らの死が「予祝」される。本書の出発点にあるのは、この不思議な、そしてこの上なく甘美な感覚だ。父となったチェン氏は、娘の誕生とともに、自分の全存在が風景へと融けこむ感覚に襲われたと言う。そしてあらゆる言葉が喪われた。

 思うにこの風景への融けこみは、一種の記憶喪失体験だったのではないだろうか。子という次の世代にバトンが渡ることによって、世界は全く別様に見え、自分という存在をつくる原理が根本から組み変わってしまう。だからこそ、すっかり書き換わった景色のなかで、チェン氏は記憶をとりもどそうとするかのように、自らの過去を辿り直すのだ。

 フランス国籍のアジア人として東京で生まれ、在日フランス人の学校に通った記憶。パリで過ごした不安定な高校時代、哲学の授業で経験した、明確な論理構造をもとに議論を構築する安心感。アメリカの大学でデザインと芸術を学び、自分だけのスタイルを獲得するなかで確信した、世界を語る言語としての表現の力。

 だが本書は、複雑なハイブリディティを宿した一人の人間の半生をつづった単なる伝記ではない。善く生きる術を教えてくれるのが哲学書なら、本書はまさにその仲間だ。情報技術によって接続が加速すればするほど互いの分かり合えなさが増大していく時代のなかで、いかにその分裂を架橋していくか。本書は伝記でありながら、同時に言語をめぐる、人と人のインターフェイスをめぐる、きらめくようなヒントがたくさんつまった哲学書でもあるのだ。

 人は、飛行機や車を使ってこの世界を地理的に移動していくことができる。だが同時に、科学や政治、文学やアートなど世界を認識するさまざまな方法のあいだを移動していくこともできる。本書が面白いのは、この二種類の移動が連動していることだ。チェン氏が東京からパリへ、あるいはパリからロサンゼルスに移動する。するとそのたびに彼は、世界の新しい見方へと移動していく。当たり前のことだけど、どんな知も文脈によって持つ意味は異なる。知が抽象化されず、土地を、人を、風景を伴っている。本書で描かれる、そのことがまず感動的だ。

 特に私が好きなのは、終盤で描かれるモンゴルへの旅と「共在」をめぐるエピソードだ。チェン氏と妻は、モンゴルで結婚式を挙げようとする。おそらくは行き当たりばったりのこの提案に、現地の人たちが乗っかる。滞在先の家長が父親役を演じ、馬に乗って娘を娶る許可を取りに行くという儀式まで行った。

 帰り際、チェン氏は父役だった男性の兄から、「馬をあげよう」という申し出を受ける。戸惑っていると、「あげる」というのは「持って帰れ」という意味ではないと言う。「この馬はここにいて、自分たちが世話をする。だが、君たちがここを訪れるときにはいつでも乗っていい」。つまりその申し出は、物質的な贈与ではなく、記憶のなかでどこまでも継続する関係を贈る、そういった類の贈与だったのだ。

 チェン氏は、これを文化人類学者の木村大治のいう「共在感覚」と結びつける。木村は現コンゴの農耕民族ボンガンド族の調査を通じて、彼らが壁の向こうにいて顔が見えない人とも「一緒にいる」という感覚をもっていることを明らかにした。彼らは隣の家から聞こえてくる会話にも反応するし、常に一緒にいるのだから自宅から約一五〇メートル以内に住んでいる人とは会ってもあいさつをしない。

 モンゴルで贈られた馬は、まさにチェン氏夫妻が東京に帰ってからもなお、モンゴルの人々や動物、景色と「共に在る」ことを可能にしてくれるものだ。そして子を持つというのも、実は同じことだろう。どんなに物理的に離れていても、その距離を含みこんで、私たちは共に在る。

※風景とともにある知――「波」2020年2月号より

新潮社 波
2020年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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