キレイごとだけではない 本書がリアルに映す“人の体感”
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
高校時代から専業主夫が夢だったが、その頃は「ヒモ」としか呼ばれず、とても友達と「夢」を語り合うことなどできなかった。なにしろ周りにはまだ、結婚したあとに嫁を働かせるのは恥ずかしいと公言する男がうようよいる男子校だったし。
さて、それにひきかえ本書の主人公、妹子は理想的な境遇にいるようにも見える。結婚相談所で知り合った妻がそこそこよい稼ぎで、自分は家事と子育てだけに集中している。とはいえ、当人はそれなりに葛藤を抱えずにはいられない。稼ぎがなく、消費するばかりの自分を「時給マイナスの男」と考えてしまう。
幸い、妻のみどりも非常に進歩的な考えの持ち主で、大変ながらも自分一人が外で働くこの状況になんら不満はない。にもかかわらず、妹子が悩み、みどりとの間に軽い諍いが発生しそうになるのは、ひとえに世間がまだ彼らの考えに追いついていないからだ。
追いつく、追いつかないといういい方には語弊があるかもしれない。社会の変化は必ずしも進歩とは限らない。ただ、男女同権に異を唱える者などさすがにいないだろう現在でもなお、女が外で働き男が家を守るというのは、まだすぐにはしっくりこないのか。自分は納得しても、世間の目が気になる。
いくら声高にジェンダーフリーを唱えても、あるいはそれを聞いて頭では理解したつもりでも、こうした体感の部分を汲み取ることなしには社会に真の変化は起こらない。そしてこのような、人の体感をなによりリアルに映すものこそ小説なのだ。
主人公が「妹子」というのは、苗字が「小野」だからというだけのあだ名だが、名前の違和感もまた、性の習慣に基づく体感だということを示している。山崎の描く日常を流れるゆったりとした時間の感覚は、今われわれの感じてしまう違和感を少しずつ和らげていくだろう。できればその後に生まれてきたかった。