星新一の頭の中!? ショートショートの神様が世界のあれこれを考え抜いたエッセイ36篇『きまぐれエトセトラ』

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きまぐれエトセトラ

『きまぐれエトセトラ』

著者
星 新一 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784041083086
発売日
2019/11/21
価格
770円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

星新一の頭の中!? ショートショートの神様が世界のあれこれを考え抜いたエッセイ36篇『きまぐれエトセトラ』

[レビュアー] 浅羽通明(評論家)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説者:浅羽通明(あさばみちあき) / 評論家)

 しかし、巻末の初出リストをご覧になればおわかりのように、いずれも四十年ほどまえに発表された文章ばかり。

 たとえば、「教育への試案」の末尾にある「行革は教育のKも」というオチは、いまの人には解説しないとわからないかもしれません。

 このエッセイが発表された一九八二年当時、行政改革というのが政治の焦点で、特にコメ(国が巨費で買い上げていた)、国鉄(現在のJR。国営だった)、健康保険すなわち「3K」の赤字が問題とされていたのでした。

 その二行まえにある「奨学金」の意味も、いまではわかりにくくなっています。まだまだ日本経済が成長していて金利も高かった当時としては、奨学金の利息は低いほうであり、その数行まえに「二十年ちかく昔に」書いた「随筆」とある「学問の自由化」(角川文庫『きまぐれ博物誌・続』に収録)での表現を借りれば、「無利息で、さいそくはゆるやか」というイメージだったのです。

「解明」では、敗戦の玉音放送後、星先生は皇居まえへ赴いたが、ほとんど誰もいなかったと記憶しているのに、ニュースでは二重橋まえで大勢の人がひれ伏し泣いていたという謎に、資料に基づくひとつの答えを、ご自分で出しています。

 これについては、最相葉月(さいしょうはづき)先生の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』が第二章末尾で、さらに正確な真相を記しているので、関心ある方は読んでみてください。

    *

 説明や補足を要するのはこれくらいでしょうか。

 それにしても、古びていないどころか、昭和五十年代に書かれたとは、信じられない文章ばかりなのには驚かされます。

 傑作『声の網』(角川文庫)において、一九七〇年の時点で、インターネットもビッグ・データも描いていた星新一先生の予見力は、エッセイにおいても躍如としているのです。

 たとえば──、

「なんとなく作家が存在している国」では、当時、盛んだった「ポルノ解禁」談義において、肯定派がすぐ「世界の大勢だから」といいたがる風潮へ、こうツッコミをいれています。

「あなたの口調だと、ソ連、中国、イスラム、ヒンズー圏は、世界の一員じゃないとなりますね」。
「いえ、決して……」
 と、相手はあわてるにちがいない

 これ、ポルノ解禁を同性婚肯定とかにおきかえてみれば、いまもそのままあてはまる指摘でしょう。

 ソ連をロシアに直せば、地域だってほぼ変わりない。何なら韓国をこれらに含めてもよい。

「多彩な宗教の国ぐに」の感想も、日本の飲食店でも、ムスリムの人びとへの配慮(ハラール認証)が見られるようになり、アジアの労働者流入も本格化しつつある今日こそ、その重要性が身に沁しみます。

「高齢化社会の小説」から三十年以上を経たいま、星先生が提起した小説の設定への疑問は、文芸批評の大きなテーマとなり得るのではないか。

「会話」で提起された問題に応(こた)えようとして、タッチパネルやスマートフォンは生まれたのかもしれません。

「移り変り」が回想する、かつて栄華を誇った映画やテレビがやがてどうしようもなく衰亡していったプロセスを、アニメがゲームがアイドルが繰り返さないといえるでしょうか。

「中国東北部の旅」一九八一年当時では、アメリカのベストセラーやミステリーの翻訳、また台湾製の家電が堂々と売られている光景を見逃していません。

 思想的、政治的には厳しい統制を維持しつつ、消費や文化においては、それなりの自由を許容するかの国のユニークな体制は、すでにこの頃から始まっていたのでしょう。

 ちなみに、角川文庫『あれこれ好奇心』に収められた「中国って、不思議な国だ」は、この五年後、北京、瀋陽(しんよう)を訪れ、文学シンポジウムなどに参加した折の紀行で、いわば続編です。思想統制への星先生の感想も記されていますので、ぜひ一読をおすすめします。

「いわんとすること」の後半を読めば、平成末年、話題とされた、国語教育を、実用第一の「論理国語」と文化を伝える「文学国語」とに二分しようという高等学校学習指導要領の改革論議が、そのまま語られているのに驚かされる。

 前半の、感想重視の国語教育への懐疑とともに読めば、「論理国語」賛成派も反対派も、おおいに考えさせられるのではないでしょうか。

 そこにからめて、若き日、太宰治(だざいおさむ)ファンだった星先生は「走れメロス」を愚作だと断じ、そこでロシアの作家シチェドリンの『寓話(ぐうわ)』に言及しています。

 これは、西尾章二(にしおしょうじ)により『大人のための童話』という題で訳されている短編(ショートショート?)集にある「自己犠牲の兎」というお話のことでしょう。大きな図書館でなら、読むことができます。

 私はこの一篇を読んで、星先生がイソップ寓話をパロった「ライオンとネズミ」(『未来いそっぷ』所収)を連想しました。

    *

 愛読者ならば、このように本書のあちこちでさまざまな星新一作品を連想し、「もしかしたらルーツはここかも」とか、「先生はこういう発想が好きなんだなあ」とか、さまざまな発見をするでしょう。

 まだまだ読んでない作品が多い方には、これからの読書のいとぐちが随所に隠れている。それがこのエッセイ集なのです。

 たとえば──、

「体験的笑い論」で、少年時代、親しんだ「少年俱楽部(くらぶ)」のギャグとして、ただひとつ具体的に引用された「滑稽(こっけい)和歌」(75頁)は、考えてみたら、あの名作「おーい でてこーい」(『ボッコちゃん』)そのものじゃありませんか。

「体験的笑い論」には、落語の話題もあります。八代目可楽(からく)、八代目文楽(ぶんらく)、五代目志(し)ん生(しょう)を、リアルタイムで聴いている星先生。古典落語では、「あたま山」「錦きん明めい竹ちく」とともに、「こんにゃく問答」を特に挙げている。角川文庫の『きまぐれ博物誌』で読めるエッセイ「誤解」では、この噺はなしを、「古典落語のなかの最高傑作」としています。

 これを念頭において、星作品を代表するあの「ボッコちゃん」(『ボッコちゃん』)を、次いでそのセルフ・パロディというべき「夜の事件」(角川文庫『きまぐれロボット』所収)をぜひ、一読してみてください。

 さらに「目撃者」(『さまざまな迷路』)とか「ふしぎなネコ」(『未来いそっぷ』)とかを読めば、異星人との遭遇ものをはじめとする多くの星作品が、「こんにゃく問答」という幹から派生し、生い茂った枝葉のように思えてきます。

 本書中の「UFOの警告」で、UFO(を遣わした異星人だか未来人だか)は、暗に人類を救おうとしているかもしれぬという仮説が展開されています。もしそうなら、なぜ「暗に」で、さっさと正体を現して救ってくれないのだという疑問に対する解答(144頁)を読んでください。

 教科書にもよく採用された「おみやげ」(角川文庫『きまぐれロボット』所収)とか、強烈きわまる一篇「要求」(『おのぞみの結末』所収)とかの読後感がかなり変わってくるかもしれませんよ。

「作文の成績」も、星作品を思い出しながら楽しめる一篇でしょう。

 国語の成績は満点なのに、作文の時間には数行書くともういいでしょうと席をたってしまい、先生を呆(あき)れさせた小学生ホシ君の姿は、後のショートショート作家を彷彿(ほうふつ)とさせて微笑ましい。

 また、事実の羅列ばかりで、「感想を入れるように」と注意されているところなども、感情描写を排したあのユニークな文体の秘密をかいまみた思いにさせられないでしょうか。

    *

星新一『きまぐれエトセトラ』(角川文庫)
星新一『きまぐれエトセトラ』(角川文庫)

 最後の一篇、「学習・コレステロール」は、先生ご自身が「あとがき」で断っておられるように、ちょっと読みづらいかもしれません。

 しかし、あるテーマを知りたいとなったら、実用書を皮切りにひたすら知識を取りこんでゆく星先生の貪欲(どんよく)なる好奇心を、ひたすら追尾してゆくことができるこのエッセイから、私たちが学べるものは少なくないはずです。

 同じテーマの本を、ひたすら買いこみ濫読する。なかには、売らんがための煽情(せんじょう)本もあればトンデモ本だってあるでしょう。それらをかきわけかきわけ、どうふるいにかけてゆくか。

 途中欲望論や生命論へ脱線したりもしながら、ついに、化学式や専門用語だらけの高価な学術論文集まで、星先生は読みこなしてゆく。「あとがき」にある通り、熱中したらもうとことんなのです。

 書物だけではと、現代の森鷗外(もりおうがい)かとまがう自衛隊陸将補の医学者にインタビューもする。

 ようやくある落としどころへ辿たどりつくまでの軌跡は、ネットをはじめとする情報飽和の渦中で、私たちが心得ておくべき真理へのレッスンとはいえないでしょうか。

 そうかもと思われた方は、角川文庫の『きまぐれ学問所』へ進んでください。ジプシー、ファシスト、老荘思想などを「知りたい」と思った星先生が、どのように書物の森へ分けいり、どれだけの収穫と満足とを得て帰還してきたのか。

 そのひととおりが、じつに楽しめて、また、学べる一冊ですから。

 これら先生の愉(たの)しくも徹底した勉強ぶりから学べるのは、可能な限りかたよらない知的なバランス感覚かもしれません。

「父と翼賛選挙」では、戦時中の息苦しさが語られていますが、それでも政権は民意を無視できなかったという一面もまた考察されています。歴史へのどこまでもクールで公平な視線。

 そして、民主主義の下、野党、テレビからデモまで、民意反映のメディアが多すぎる時代のほうが、抵抗力がぼやけるという末尾の指摘は、インターネット以降、ポピュリズムの時代を生きる私たちを考えこませずにはおかないでしょう。

 そして、「映画「雲ながるる果てに」について」のラスト三行をいつも忘れずにものを考えてゆきたいなと思えてくるのです。

    *

「あの時の私」には禁煙体験が語られています。それ以来、作中人物もタバコを吸わなくなったという副作用が生じたそうです。

 結果的に星作品は、いよいよ時代を超えた普遍性を帯びたといえましょう。当時書かれた小説を読むと、昭和の男たちは皆タバコを吸っていますからね。

 これは無意識でそうなったわけですが、後世の人が自分の作品を読んでもわかるように、晩年の星先生が自作に手をいれつづけていたのは有名です。「ダイヤルを回す」は「電話をかける」に云うん々ぬん。

 先生は、自分の作品の幾つかが、もしかすると数十年どころか数百、数千年のちまで読まれる可能性を、おぼろげながら感じていたのかもしれません。

 だって、ときどき名前がでてくるイソップは、二千五百年まえの人なのですから。

 そういえば「UFOの警告」で先生は、〝人類よ、早まるな、何万年という時間を生き延びよ〟というメッセージを、UFOを遣わしたかもしれない異星人や未来人、あるいは集合的無意識へ託して、自ら「こだわりすぎ」というほど繰り返し訴えています。

 一般人はまず一週間、政治家は次の選挙まで、学者だってせいぜい百年先くらいしか考えないと嘆く先生。

 しかし、現代のイソップたる才能を持ってしまった星新一の感覚では、人類未来史十万年百万年という展望すら、自分の作品が届く射程としてごくリアルなものだったのではないでしょうか。

    *

 以上、解説不要といいながら長々とすみませんでした。

 やはりショートショートの名手だった都筑道夫(つづきみちお)は、星作品について「わかりよすぎる」(『世界SF全集28星新一』月報)という苦言を呈していました。

 冒頭で述べたように星エッセイもまた、きわめて読みやすい。でも、けっして読みやすくて軽いだけではないんだよと念をおしたくて、つい書き連ねてしまったのです。

 そうです。星新一の作品は、そこからいくらでも私たちの思考と想像を広げてゆける不思議な種子なのです。

 そして、ほかの人に語りたくなる。誰かの感想も聞きたくなる。そんなアイテムなのです。

 申し遅れましたが、私、そんな星読者の感想交換会として、二年前から毎月、星新一を読むゼミナールを始めた者です。

 関心あるあなたは、[email protected]へ「星ゼミ希望」とメールしてください。詳細と予定をお送りします。

 最後にPRでした(汗)。

▼星新一『きまぐれエトセトラ』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321902000595/

KADOKAWA カドブン
2020年02月11日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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