荷風を盗んだ男 「猪場毅」という波紋 善渡爾宗衛、杉山淳編 幻戯書房

レビュー

8
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荷風を盗んだ男

『荷風を盗んだ男』

著者
善渡爾宗衛 [編]/杉山淳 [編]
出版社
幻戯書房
ISBN
9784864881883
発売日
2019/12/25
価格
4,950円(税込)

書籍情報:openBD

荷風を盗んだ男 「猪場毅」という波紋 善渡爾宗衛、杉山淳編 幻戯書房

[レビュアー] 木内昇(作家)

 自分がいっかな蓄財ができない性分のせいか、他人の金欠話に接すると心安らぐ。こと内田百●や金子光晴ら文士の、相応に働いており、さして浪費した覚えもないのに暮らしに詰まっている逸話は、読むたび共感に打ち震えてきた。(●は門がまえに月)

 さて、ここに猪場毅(いばたけし)なる人物がいる。大正末期から戦後にかけ、編集者として、また伊庭心猿(いばしんえん)なる俳人として活動したこの人もまた、窮迫している。一四の頃に富田木歩(もっぽ)のもとで俳句を学ぶも素行不良で破門。その後、佐藤春夫の弟子となり、永井荷風に師事もするが、いずれも不和に転ずる。それというのも猪場が金に窮した挙(あ)げ句(く)、荷風や樋口一葉の筆跡を模写し、偽筆原稿や短冊を作って売ったことが露呈したため。おまけに、未発表作の春本『四畳半襖(ふすま)の下張』を勝手に世に出された荷風、憤慨もむべなるかな。彼は即刻筆誅(ひっちゅう)を下すのである。

 戦時中に書かれた『来訪者』なる短編がそれで、猪場らしき男の詐欺まがいな言動が生々しく著される。佐藤春夫もまた、『わが妹の記』なる猪場の伝記的小説で、放浪しつつ生き別れた妹を探す彼の半生を大変胡散(うさん)臭く描いている。本書はそうした猪場にまつわる小説を収めつつ、その実像に迫るのだが、不思議とうんざりした気持ちにならないのは、荷風や佐藤のみならず久保田万太郎や堀口大学ら文人が顔を出し、昭和初期の文壇を間近に感じられる楽しさからか、はたまた大作家からこてんぱんにやられる猪場への、同病(金欠病)相哀(あわ)れむ心からか。 

 自らの住まいを偏奇館と名付け、他者と距離を置きながら、浅草の踊り子たちの楽屋には頻繁に通っていた荷風。その荷風への敬慕と批評を『小説永井荷風伝』にしたためた佐藤。曲者(くせもの)は、猪場だけではないのである。彼らの歩んだ余人を寄せ付けぬ偏執な道は、いずれも相当に厄介だが、才より能より清廉であることが求められる昨今の風潮にあって、その人間臭さにはやはり心安らぐものがあるのだった。

読売新聞
2020年2月12日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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