甘夏とオリオン 増山実著 KADOKAWA

レビュー

3
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

甘夏とオリオン

『甘夏とオリオン』

著者
増山 実 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041089125
発売日
2019/12/12
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

甘夏とオリオン 増山実著 KADOKAWA

[レビュアー] 南沢奈央(女優)

 私が尊敬する落語家のひとり、立川談春さんは前座修行時代、いくら過酷でも上手(うま)くいかなくても、大変だと思ったことがないと言う。その訳を一言、「決めたから」。また、師匠から矛盾したことや理不尽なことを言われても、「(談志)師匠に惚(ほ)れてるから」。

 師匠と弟子の間には、外部からは踏み込めない領域があるのだと知った。絆とも違う、師弟関係の特別な結び付きがある――はずなのだが、師匠が失踪した。そこから物語は始まる。

 舞台は大阪の下町、残された弟子の末っ子、まだ駆け出しの女性落語家・甘夏が主人公だ。小さい頃の父親の冷たい態度がきっかけで、人前で声を出して注目されることが怖く、内気な性格になってしまった彼女を突き動かしたのは、落語家・桂夏之助。落語の中に、自分が憧れる「突き抜けたアホたち」がいたのだ。

 芸だけでなく、落語の本質や生き様を教えてくれる。その師匠が不在の一門。甘夏と2人の兄弟子は、落語「鴻池(こうのいけ)の犬」に登場する捨てられた3匹の子犬のように惨めで、どこへ向かえばいいのか分からなくなりながらも、「師匠、死んじゃったかもしれない寄席」を開いて師匠を待つことに。さて自分が演じたい落語は何なのかと考えてみると、今の自分の心情に気づく。そもそも、なぜ自分は落語をしたいのか。立ち返ると、自分の弱さが見えてくる。

 「この世界も、捨てたもんやない」。ジャズナンバー「ワット・ア・ワンダフル・ワールド」を意訳した夏之助の言葉が胸に浮かぶ。汚い部分も醜い部分も、人生を肯定してくれる。心の隙間を埋め、自分の信じた道を進んでいこうと思わせてくれるのが、落語なのだ。

 不在の夏之助が物語の軸に佇(たたず)み、憎むでも責めるでもなく、最後まで心の指針にしている弟子たちを見ると、師匠という存在の大きさを感じる。いつか彼女たちが、今度は誰かの師匠になっていく姿に思いを馳(は)せずにいられない。

読売新聞
2020年2月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

  • このエントリーをはてなブックマークに追加